好きこそものの上手なれ、ひとつでも特技があり、それが生業になりうるのは、多くのかけがえのない出会いと、そのありがたい助けがあってのことだと、歳を重ねるたびに痛感します。
もう随分昔のことですが、事務所を設立し、希望を胸に、自分が設立した会社の屋号が入った名刺や必要書類を揃えていったときの高揚する気分を、昨日のことのように思い出します。特にデザインの仕事では、大きな校正紙のやりとりも多いものですから、大型の封筒も必需品でした。
当時はまだ資金の余裕もなく、封筒にオリジナルのデザインで格好良く名入れするのは叶わず、そこで考えたのが、ゴム製のスタンプを大型封筒に合わせたサイズで特注し、各種サイズの封筒に共通で捺印して使うというものでした。それでも少々痛い出費でしたが、奮発してオリジナルスタンプを発注したのを覚えています。
さて、話が変わって、少しばかり、恥ずかしい“告白”です。
僕は方向音痴なるものに知らぬうちに憑依されていたようで(つまり生まれつきということ)、実は結婚するまでは自覚していませんでした。それは独立後、初めて仕事の相手先へ出向いたときのことです。住所と地図を片手に最寄りの駅から歩くこと10分。そろそろ到着するはずが、パラレルワールドにでも紛れ込んだように、どうもゴールできません。
その場所は自分が以前住んでいた地域の近所でもあったこともあり、地理的な目印の所在やおおよその方角を理解しているつもりだったのですが、結局自力ではたどり着けず、お相手先にSOSの電話をかける始末。そのエピソード以来、妻はもとより、その仕事で出会った、その後長い付き合いとなる方々にも、方向音痴ということで印象づき、移動の際は何かと優しく接していただいているようです。
しかし、“告白”が恥ずかしくなるのはこれからです。実は方向音痴以外にも、妻にやんわりと指摘されるまでは自覚できていなかったことが沢山あり、自分との結婚をよくも決意してくれた妻に対して、何年経っても感謝しているわけです。
例えば、とっさの時に右と左が混同してしまったり、日常に必要な数字がどうしても覚えられないなど。外出先で自分の年齢を書く必要があるときは、意識の霧の向こうに見えそうで見えない年齢の数字を求め、考え抜いたあげく書くと、必ず2〜3年はズレので、僕はだいたい○歳くらいですとなってしまい、まるで推定年齢と化してしまいます。
自宅や事務所の電話番号や住所は特に難しく、移転するたびに、彼女に語呂合わせを作ってもらいます。
サイズや寸法の間違いはかわいいもので、特に困ったことと言えば、銀行口座の暗証番号です。解約するにも、確認するにも、必要な情報を綺麗に忘れており、よくわからないまま作った口座がいくつもあったようで、結婚後、なんと妻はその暗証番号を片っぱしから言い当ててしまったのですから、新婚期にして、もう彼女についていくしかないな…と思わざるを得ませんでした。
さらに話が変わります。
僕にはこの道に進むきっかけを与えてくださった恩師がいたのですが、結婚と独立(起業)がほぼ同時だった折に、奇しくも恩師が病でなくなったのです。生前に両方のご報告がギリギリで成せたことは、せめてもの恩返しではありました。先生ご自身が著名なクリエイターであったのですが、学生時代より大変かわいがっていただきました。そんな先生が旅立たれてから少し経ち、奥様から「形見分けとして、アトリエにあるもの、どれでも好きなものを差し上げるから、事務所開きの準備で忙しいでしょうけど、取りに来てね」とのご連絡がありました。
数日後、アトリエに伺い、先生が愛読されていた本を数冊頂戴しました。そのまましばし、沢山の資料やお作品の整理をさせていただいいていた、そのとき、画用紙の束が大量に納戸の隅に置いてあるのを見つけたのです。古ぼけた束は、よくよく見ると、そのサイズがA版規格でもB版規格でもない、かといって正方形でも微妙にないよな…なぞのサイズ。
訝しがる僕のようすに気が付いた奥様から、衝撃の話が飛び出したのです。
「その紙! あの人、そんな所に隠して! あの人はよく、紙屋さんに断裁のサイズを間違って発注して、納品されてからそのことに気がつくのよ。だから私にみつからないように、そんなところにしまっていたのね。紙を隠したって、間違ったな!って私は知ってたのにね! あははっ……(笑)」
それを聞いた僕は、笑えないどころか、そんなところまで引き継いだのかと、ご縁の不思議をまざまざと感じ、古い紙の束を1つだけ、形見に加えさせていただいたのでした。何にも用途を見出せない微妙なサイズの紙の束でしたが、先生のリアルなお人柄と先生との繋がりを感じつつ、独立したての当時の僕には、ある種の戒めのような手向けをいただいた、とも感じたものでした。
いよいよ話が戻り、事務所開きに向けてカウントダウンです。
こまごまとした用具や資材の準備が整い、発注していたゴム製のスタンプが届きました。特注した巨大サイズのスタンプには、大きなドアノブほどのグリップがついていて、当時の僕の気合いの入りようが伝わる佇まいです。まさしく人生の節目、万感の想いを込めてグリップをグッと握り、いざ!捺印をしようと、インクパッドを手に取ると…、あれっ! 特注ゴム製スタンプが大きすぎて、インクパッドの4倍強ほどのサイズではありませんか!
つまりスタンプ面がパッドのインク面にまるで収まらないということ…。
夢と気合いのジャンボスタンプは、活躍の日の目を見れず、妻に知られぬよう、とっさに押入れの奥に隠したのです。が、その後のことはご想像通り…。
(写真は恩師アトリエにある生前の作業机)