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ふたつの心

 どの作品でも、創り上げる過程では、“ふたつの心”に正直でいようと思いながら制作しています。

 

 ひとつは、絵を描く、手の心。もうひとつは、絵を見つめる、人の心。

 

 前者は、作品を制作する者であれば、だれもが前提とすることでしょうが、この目で見たものであれ、この手で触れたものであれ、もしくはこの脳裏に空想したものだとしても、インスピレーションには、自分の身体を経た、経験や実感、あるいは気づきが、裏付けとなっております。

 

 それは、なにものにも代え難く、そして、どうしようもなく譲れない、そんな心情が、描く際の手、それ自体と一体となってしまうような、そんな感覚です。

 

 一方で後者は、仕上がった絵を前にして、じっと見つめてくださる、自分以外のだれかの目です。作り手の存在などは、とうに過ぎ去り、絵と、その絵に出会った人だけの、見つめ、見つめられる関係によって育まれる、鑑賞者の心に去来する、何らかの心情でもあります。

 

 それは例えるならば、前者を“衝動”、後者は“感動”とでも言えましょうか。

 

 考えてもみれば、衝動は、作品が仕上がるまでの領分であり、感動は、仕上がった作品から始まるわけですから、通観すれば、つまりは“作品が経験する生涯”だともいえるわけで、やりがいや、楽しさと同じくらい、作るものには責任があると感じるのは、真面目すぎるでしょうか。

 

 自分が描いたものが、誰かの生活にあって、その人の人生の、1分でも1秒でもいいから、ホッとしたり、ニッコリしたり、穏やな瞬間を担えるよう願いながら作っているものですから、やはり“ふたつの心”をしっかりと見据えること、つまり正直であることは、自分の作品制作には大切だと感じるわけです。

 

 しかしながら、制作するときの心持ちは、衝動、つまり手の心が、どうしても優勢になりがちです(どうにもゆとりが無いようで恥ずかしいのですが…とにかく必死だ、ということですね 笑)。

 

 どうにかバランスを保てないものかと、考えあぐねているとき、思いついたのが、“自分の作品を、自分の生活に飾ってみよう”というものでした。

 

 そこで、毎週土曜日の朝、朝食を摂ってから、妻に絵を選んでもらうことにしたのです。

 

 妻に作品の選択を委ねると、僕の考えや思惑など何処吹く風、彼女の“今の気分”に寄り添える(つまりその御目に適う)作品をめがけて、白羽の矢が軽々と飛んでいきます。

 

 僕にとっては、その程よい意外性が、毎回ちょっとクセになる感じで、そんなささやかな儀式のおかげで、自分が描いたという実感が、良い意味で、少しずつ薄れていくのですから、不思議なものです。

 

 幸いにも、作品は文字通り売るほどあるわけでして(笑)、未発表の作品はもちろんのこと、試みとして制作したもの、誰かに見せるために描いたわけではないものまで、問答無用にその矢は飛んでいきます。

 

 そうしてご指名を受けた作品は、アクリル板で挟むだけの、簡単なものではありますが、額に収まり、我が家の一角から一週間、僕たちの生活を、見守ってくれることになります。

 

 掃除をしているとき、何気なく眺めたり。

 カーテンを閉める際に、偶然目の前にあったり。

 夕暮れどきの光や、明け方の暗がりで、静かに佇んでいたり。

 ちょっと疲れたときに、絵と目があったり。

 ただいまと帰って来たときに、おかえりと部屋の奥から、こちらを見ていてくれたり。

 

 生活の中に絵があることで、どんな気持ちになれるのかという点で、“絵というモノ”について、あまりにも知らないことが多いものだと気付かされます。

 

 そんなふうに、生活に取り込まれた絵は、我が作品であることをほどよく忘れることで、実に多くの発見を与えてくれるだけではなく、次のインスピレーションの糧になることさえあるのです。

 

 ある日、彼女がアイロンが温まるのを待っている間、何かを感じ入っているように、じっと一点を見つめていることに気がつきました。その視線の先をたどると、そう、絵がありました。

 

 一枚の絵は、作者の思惑を越えて、向き合う人の数だけ、意義と関係を育めるものなのだなぁと、なぜだか僕が、ちょっと照れくさいような嬉しさを感じたのでした。