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間合い

 先日、ある美術館で開催されている展覧会を訪れたときのこと。

 

 誰もが知る西洋絵画の数々が展示されるとあって、注目度の高い展覧会で、皆がひと目見ようと、入場までかなりの列をなしておりました。僕もあの名画に出会えると思うと、ワクワクとした気持ちでその列に加わり、ギュウギュウ、ジリジリとなって待っておりました。

 

 さて、その後しばらく待機の列で待ったのですが、いよいよ展示室に入ることができ、お待ちかねの名画とのご対面!と思いきや、展示室の暗がりで目にするのは、折り重なる人垣のシルエットばかり。

 

 トホホ…となりそうでしたが、気を取り直して、あっちの人垣がまばらになれば、サッとおもむき、こっちが空いたら、エイッと移動。人垣の合間からも、覗き込んだりしながら、花から花へ飛び回る、はたらき蜂さながらに鑑賞をして参りました。

 

 作品はどれも素晴らしく大満足だったわけですが、実は作品とは全く関係がないことで、ちょっとした発見がありました。

 

 それは人が作る行列の中にみる“間合い”です。

 

 入場までは縦(つまり他人の背中を見つめ、他人に背中を見つめられているであろう立ち位置)で列をなします。少しでも前へ行こうとする意識から、こちらに背を向けている、前方の人との間合いを詰めようとします。そして自分自身もまた、きっと同様の心理から、背後の他人に間合いを詰められることで、背中に迫る他人の気配を感じ、その結果、非日常的な他人との距離感にギュウギュウ、ジリジリとした縦列特有のプレッシャーを感じるわけです。

 

 一方の展示室では、その列が横(自分を含め左右の他人が、みな同じ絵のある方向を見る立ち位置)の並びとなります。お隣さんへの気遣いからか、見知らぬ人への緊張からか、互いに、ほぼ同じタイミングで、自分なりの距離感を保とうとします。その結果、人が密集しそうになると、ふっと分散する現象が、人垣のあちらこちらで緩やかに、絶え間なく生じることになり、それが隙間から絵を覗き込むには、程よい間合いとなるのです。

 

 おかげでなんとか作品を拝めたわけですが、そういえば随分以前にも、バス停でバスを待つ人の列に、似たようなものを感じたことを思い出しました。

 

 杖を支えに、静かに佇むおじいさんを先頭に、愛で周りが見なくなっている若いカップル、忙しく時計ばかり気にするサラリーマン、すがりつく子をよそに、遠くを見つめるちょっとお疲れのお母さん…。

 

 性別や年齢、立場や事情が異なる他人どうしが、横列になってバス停に立ち並ぶ、後ろ姿を眺めていると、偶然その場に居合わせた者どうしが作り出す“間合い”が、あまりにも絶妙で、通りすがりでしたが、しばし見惚れていたことがあるのです。

 

 バスに乗るという共通の目的意識で、狭い場に集いながらも、見ず知らずの他人が隣り合うという状況が、気遣いと緊張による距離感を体現し、そうして生じた、当事者同士にしかわからない間合い(距離のバランス)が、ちょうど互いのキャラクターを尊重できるような、ほどよい余白となります。

 

 そしてその余白が、かえって互いを無理なく繋ぎとめ、本質的なデコボコ感をそのままに、一列全体としては“自然な一体感”を生んでいたのでした。

 

 創造的な飛躍が許されるなら、その情景はまるで、“一列が語る、一行の詩のようで、互いの人生や生活の中の、偶然の出会いが織りなす“街のいとなみの詩”とでも言えるようで、共感できるなんとも不思議な美しさを感じたものでした。

 

 さて昨年末のことですが、“A BOOK~しずかな こえ~”というアートブックを上梓いたしております。それはアート作品の表現スタイルのひとつとして、絵本のように読み進める作品、つまり“一冊の作品”であります。見開きごとの絵と言葉の呼応、そしてページをめくることによる、ストーリーの進行が、一枚の絵がもたらすインスピレーションとは、また違った情感をもたらす可能性を感じ、制作いたしました。

 

 この本の本編で語られるストーリーを表明する文字たちは、和文も欧文もすべて、この本の世界観を表現するためだけに制作したオリジナルの文字となっております。

 

 いつも、創作時のファーストインプレッションは、ストーリーと絵のイメージが、同時に脳裏に浮かぶことが多く、そんなときのストーリーをナレーションする声は、いつも僕自身の声のようでもあり、絵の世界を共感してくれる誰かの声のようでもあり、あるいは、絵の世界に満ちる声のようでもあるのです。

 

 この不思議なナレーションを、なるべく正直に再現しようとするとき、実は同じくらい大切なのが、“間合い”へ対する感度なのです。

 

 ひと言のうちに見出す、いち音ごとの息遣いとその印象の感触に、形を見出そうとする意識は、文字のデザインというよりはむしろ、見えない声という“姿を描く”感覚に近く、それは紙やカンバスに向き合うときの感性と同じものでした。

 

 文字のことを英語で“character(キャラクター)とはよく言ったもので、いち音ごとの個性をとらえ描き出し、そして、隣り合う文字と文字の間に必要な気遣いや、生じる緊張を汲み取りながら、絶妙な間合いを探り出します。

 

 そうして出来た文章という列には、そうあの“自然な一体感”が芽生えるわけです。

 

 もしも、この本を手にしていただいいて、ゆっくりとページをめくっていくうちに、文字から聞こえるような、絵から聞こえるような、あるいは絵本を眺めている自分自身の声のような、あの不思議なナレーションが、どこからともなく聞こえ出したなら、こんなに幸せなことはないなぁと思うのです。