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リアリティ

これは新婚時代に数年間過ごしていた、木造二階建ての古い古いアパートでのお話。

 

 そこは、僕が独身時代から過ごしていた古いアパートで、太陽の陽射しにだけは恵まれた、二階奥の角部屋でした。狭い畳敷きの部屋に、お風呂は内釜式(風呂を沸かすための手回しの着火、ひと手間もふた手間もかかる、昔のあれですが、知らない方は検索してくださいね)、洗濯機は二層式(知らない方はこれも検索)という、懐かしき昭和を、今に残したような住環境でした。

 

 とにかくお金がなかった結婚当時、妻がそのアパートに、ほとんど身ひとつで引っ越してきたのですが、さすがに新妻を迎えるにあたって、せめて六畳ひと間だけでもと、たたみを新調したのを覚えております。

 

 しかし、当初はエアコンも無く、夏ともなれば、涼をとるため窓を開け、せめて気分だけでも涼もうと、軒先きに風鈴をさげるような生活。

 

 建物自体の古さからか、もともとの構造の問題か、どこかに隙間が必ずあるアパートでして、真冬ともなれば、室内は容赦無く外気と同じ温度まで下がります(これが、なぜだか外より寒い気がする!)。また、そんな構造上の問題…いや、個性を持った物件ですから、地震ともなれば、威勢良く揺れるような、そんなちょっぴり不安が残る…いや、愛すべき我が家でした。

 

 そんなアパートですが、陽当たり以外にも、もう一つ気に入っているところがありました。お隣の家のお庭です。お隣の家はその界隈の地主さんのようで、昔から建つ大きな一軒家。広い敷地の半分を占めるお庭には、様々な植栽があり、いつもだれかが手入れをしている姿を見かけておりました。

 

 当時、僕はよく窓を開けて眼下に望む、お隣の庭を借景しながら、窓辺で中国茶を飲むのが大好きでした。春になると、そのお庭の奥にある桜の木から、花びらが風に乗ってひらひら部屋に舞い込み、手にした茶器の中に、ひとひら浮かぶという嘘のようなミラクルも。

 

 暑さ寒さが筒抜けの古いアパートでは、季節の変化とその息遣いを、文字どおり“肌で感じる”日々を過ごしていました。

 

 ある秋の夜。床についたものの、日中の仕事がやや込み入っていたせいか、その日は頭が冴えてなかなか寝つけずにおりました。そして、ぼうっと暗がりを見つめていると、隣の庭のどこかから、秋の訪れを告げるように、コオロギの鳴き声が聞こえ始めたのです。

 

 その優しくも澄んだ声は、少しずつ近づいてきて、ここが二階だというのに、どうやら窓辺のどこかすぐ外で、しばらく滞在しているようでした。

 

 目を閉じて、じっと耳を傾けていると、その音色に込められた、ひたむきな情熱と、また一方で、それを無闇やたらに感じさせない品性を、そして秋の夜の静寂に対する、敬意のようなものまでも、じわじわと伝わってくるから不思議です。

 

 秋の夜は、空気が透明だからでしょうか。そんなコオロギの歌声は、ほんの耳元にあるようでいて、遠くの暗がりにまで染み渡るような、不思議なまでに臨場感があり、僕はその声の繊細な強弱につられるように、深い眠りに導かれました。

 

 さてその後、不思議なことに、夜半になると、あの美しい歌声がどこからともなくやって来ては、度々僕を眠りの旅路へ誘ってくれるようになり、おかげで一週間ほどは、寝つきの良い夜を過ごせたのです。

 

 そんな日が続いた週末のこと。昼食を終えてから、いつものように窓辺にもたれ、お隣のお庭を借景しながら、のんびりとティータイムが始まります。窓を開け放ち、妻と二人でお茶を飲んでいる、その時、待ってました! とばかりに、一匹のコオロギが、なんと〝部屋の中から外へ〟飛び出したのです(笑)。

 

 悲鳴をあげる間も無く、二人で顔を見合わせ、ここ一週間の状況が、その時やっと飲み込めたというわけです。

 

 かつて住んでいた、古い古いアパートでのお話です。