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Nuance series 2018

Nuance series(ニュアンス シリーズ)2018

技法:水性顔料ペンによる彩色 / 用紙:ヴァンヌーヴォー / サイズ:420×594㎜

 

初夏の黄昏どきのことです。夕飯を外で済ませ、たまには歩いて帰ろうかと、夫婦連れ立って家路につく道すがら、ビルの間合いにのぞむ、空の色の美しさに目を奪われました。それは、光の主役が太陽から星々へと移りゆく、広大な空で静かにうつろう“間(あわひ)”のとき。東の空は濃紺色。これから大気を覆い尽くす、鎮もる夜の色です。西の空は水浅葱色。かなたの世界の夜明けの色でもあるわけです。夜の空は剥き出しの宇宙だと気がつくと、その神秘的な美しさに目眩を覚える一方で、かすかに残る夕日の残光に、今日という時の背中を見送るようで、心がさわめきます。こんな“間(あわひ)”のときは、瞬く間に過ぎ去るものですから、見上げ続け、歩み運びがおろそかになりながらも、願わくばその美しさの理(ことわり)を見出したい、などと思ってしまうのです。写真であれスケッチであれ、野暮と承知で空に映った宵のドラマを、幾度となく“記録”しようと試みるのですが…さてどうしたものか、欲しいものはいつも、理性と理解の網の目をすり抜けていきます。まるでマジシャンの華麗な技に、心地よくあざむかれたときのように、気がつけば、余韻だけを抱きしめているのがおちなのです。地球を外から見おろした宇宙飛行士たちが、足がすくむようなその美しさに、人生感を一変させるといいますが、地球はこうして内から見あげても、歩く足元を見失いそうになるほど美しい、ということです。ではこの美しさの理、言い換えるなら、美しいと感じる体験の正体とは、一体なんなのでしょうか。素朴な疑問のようで、その実、空に広げた大風呂敷のような問いです。帰路もいよいよ終盤、空もすっかり夜に包まれ、ようやく、ただいまと玄関先にたどり着くころ、僕にはひとつのイメージが浮かんでいました。それは、先ほどまでうっとりと見つめていた、空の“間(あわひ)”のとき、つまり夜と昼、二つのはざまに生まれたうつろいの風景に見出したイメージでした。夜でもなく、昼でもない。夜とも言えるし、昼とも言える。この夜と昼の“違い”の間に芽生える、不均衡の刹那(せつな)には、夜や昼という大振りで限定的な観念が無くなり、極めて微かな違い、つまりニュアンスの連続的な階調のみが、西の端から東の端いっぱいの空に広がっていたのです。この不均衡には、人を戸惑わせる力があり、それがときに、見る者おける経験の読後感を、美や愛といった心情へと導くのではないかと思ったわけす。大空を舞台にした、昼と夜という壮大な違いだけではなく、和紙に落とされた墨がみせる、滲みという墨と紙のせめぎ合いのような、小さくて微かな違い。さらには、物理的な現象や事象にとどまらない、意味合いや心理、関係や状況などの領域にも見出せます。無償の愛を信じあう親と子の間に、それでも横たわる人生の違いであったり、言葉という存在を信じる、語り手と聞き手につきまとう疎通と齟齬であったり、日常には、実にたくさんの相違が潜んでいることに、気がつくのです。僕たちのこの世界が、広義の意味合いにおいて、“違い”でできているとするなら、この“違い”どうしが、調和や均衡へ向かおうと、手を取り合い、抱きしめ合い、互いの差を埋めようと、つまり“繋がろう”とするとき、そこに生じる“事象の戸惑い”にこそ、私たちが“美しい”と感じることの本質と、そう感じることができる“チャンス”も、同時に潜んでいるように思えるのです。このNuance(ニュアンス)という作品は、そんな美しさにまつわる、自分なりの体験を、厚紙に水性顔料ペンで描き込んだ、ペン画作品のシリーズです。具象と抽象の違いを意識し過ぎないよう、インスピレーションを心に留めたなら、ペンでひたすら塗りあげます。細いペンで広い面のすべてを、一度に塗りつぶすのは、ままならないことではありますが、生じる塗りムラを恐れず、ただひたすら幾重にも塗り重ね続けていきます。すると次第に単なる塗りムラであったものが、絵全体の印象を支えるような、ニュアンスとなって立ち現れるのですから不思議です。

 

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