Nuance series(ニュアンス シリーズ)2019

技法:水性顔料ペンによる彩色 / 用紙:ヴァンヌーヴォー / サイズ:420×594㎜

ひとつの作品ができるまで、どのくらいの時間がかかるのか、ちゃんと調べたことはないのですが、少なくてもこのNuanceシリーズでは、制作している時間(つまりペンで塗り続けている時間)は、振り返っても思い出せないほど、時間をかけているようです。水性顔料ペン(いわゆる通常のペンサイズの筆記具)を片手に、来る日も来る日も塗り続けるのですが、そんな毎日を送っているあいだにも、次なる画題に出会うことなどは多々あるものですから、インスピレーションを手放さないようにするべく、一旦サムネイルサイズ(ミニサイズ)に描くようにしています。ひとつの作品が仕上がるまでの間に、次第にサムネイルが溜まっていくのですが、そこで密かな楽しみがあります。朝起きぬけに、眠い目を擦りながら、朝食の支度ができるまでのテーブルに、それらをずらりと並べてみたりすると、小さな展覧会のようで、心がウキウキと楽しい気持ちになるのです。早く全部のサムネイルを、大きいサイズに本塗りで仕上げたい!と妄想するのですが、現実はそう簡単にはいきません。この作品の制作を通じて、ペンを使った色の塗り方(つまり“タッチ”)を、いくつかあみだしました。ペン運びとその重ね合わせの仕方によって、仕上がりの見え方がかなり違ってきて、ちょうど絵の具によるマチエールに相当することが、ペン塗りでもやり方次第で生まれるのは、苦労があっても楽しいものです。しかし一回の塗りで、まるでたくさん塗ったように見える(ズルいけど楽な)塗り方は、残念ながら発見できずにおります。さあ、ではどのくらい塗り重ねるのか。それは作品によってもかなり差があるのですが、数週間かけて、ペンのインクが数本ほど空になったあたりで、一度かならずこう思う時があります、「随分と塗れたなぁ…」と。そうして自分で自分に労をねぎらいながら、半日ほど見つめていると、残念ながらこんなことに気がつくのです、「ああっ…まだ、半分も来ていないかも…」と。わかっていても、いつもこの繰り返しです。そして、見果てぬゴールを目指し、再び修行の日々が続くのです。長時間ペンを振り続けるものですから、指などの関節に負担をかけてしまい、以前は半年ほど痛みが抜けないこともありました。そんなわけですから、ペンの握り方、腕の使い方、肩と肘の支点の置き方など、長時間の作業に耐えるための様々なノウハウを自然とあみだしてきており、そんな体全体の運用の仕方も含めてペンの“タッチ”となっていきました。さて、そんな伝わりにくい芸を、誰に見せるわけでもないのに磨きながら、いつものように、毎日ひたすらペンで塗り込んでいくと、ある日ようやく目の前の塗り重ねた色に、異変を感じ始めます。なんと言いますか、彩度が急に動き始めたような、透明感のような奥行き感のような、うまく解説できない状態が画面から立ち現れてくる感じです。僕はそのことをよく妻に「やっと、色が覚醒しはじめたよ…」と、ちょっとだけ格好つけたような言い方で話すのですが、その実、覚醒という言葉が、なにせぴったりな印象のです。色が持っている単なる発色だけではない、青色の中の黄色的な何かだったり、どこまでも行っても不透明になれない透明の性(さが)のようなものであったり、ペン、紙、色、インク、動き、意思、葛藤など目に見えることから見えないことまで、様々な表現因子があって、それらすべてが純粋な姿で、必然たる時に交わり支え合い、表現に向かって噛み合い始めたような感覚をうけるのです。ようやくここまできました。そうなると今度は、いよいよ“やめどき”で悩む日々の始まりです。ゴールを知っているのは自分の感覚だけです。今がその時なのか、あと少しだけ先なのか。妻には完成したよ!と言いながら塗っている姿をいつも笑われるわけですが、ふっとした時、これ以上進んでしまうと、絵を汚してしまうというその手前に、今、自分がいることを感じることがあります。そうなって、ようやく作品は完成となります。制作において、始めることと終えること、続けることと止めること、そんな両極の間(あわひ)では、絶え間ない決断の連続が、色を塗り重ね続けさせます。そうしてを差異を繋ごうとする意思が、色のニュアンスを生み出していくのだろうと思います。最後に、以前、Nuance series 2018の紹介で書かせていただた文中の一節を、あらためてご紹介したいと思います。

………僕たちのこの世界が、広義の意味合いにおいて、“違い”でできているとするなら、この“違い”どうしが、調和や均衡へ向かおうと、手を取り合い、抱きしめ合い、互いの差を埋めようと、つまり“繋がろう”とするとき、そこに生じる“事象の戸惑い”にこそ、私たちが“美しい”と感じることの本質と、そう感じることができる“チャンス”も、同時に潜んでいるように思えるのです。このNuance(ニュアンス)という作品は、そんな美しさにまつわる、自分なりの体験を、厚紙に水性顔料ペンで描き込んだ、ペン画作品のシリーズです。具象と抽象の違いを意識し過ぎないよう、インスピレーションを心に留めたなら、ペンでひたすら塗りあげます。細いペンで広い面のすべてを、一度に塗りつぶすのは、ままならないことではありますが、生じる塗りムラを恐れず、ただひたすら幾重にも塗り重ね続けていきます。すると次第に単なる塗りムラであったものが、絵全体の印象を支えるような、ニュアンスとなって立ち現れるのですから不思議です。

 

★この後も作品が仕上がり次第、順次公開致してまいりたく思っております。


Room series(ルーム シリーズ)2019

技法:紙版画 / 用紙:GAバガス / サイズ:420×594㎜ / エディション:モノタイプ

この〝Room series 2019〟は、紙版画の技法による作品〝Room series〟の2019年度版です。Room series 2017から、二年の時を経て、作品の源泉は同じでも、それへの感じ方のアングルや深度、それをいかに表現するかというスキルにいたるまで、多くの試行錯誤とともに多少とも変化があったように思います。どのテーマの作品でもそうですが、制作を重ね続けることは、アートというジャンルを越えて、自分の人生に必要な、気づきや学びをもたらしてくれます。ときに表現上の微妙な迷いの最中であったり、ときに技術上立ちはだかる困難と克服のうちであったり。それはまるで、ひょんな拍子に貰えるご褒美のようです。作品づくりを通じて、足りないことや知らないことが〝わかる〟ようになることが、わずかでも違う自分へと〝かわる〟ことだとするなら、作り続けることは、悔しいかな、いつも何かを知らない自分を知り、そんな自分を反省したり、理解したり、克服したりする必要を突きつけられます。そうなるともはや、作品制作と内省の繰り返しが、分かち難いこととして受け入れざるを得ず、ゆえに自分が描く表現からは、それ相応の変化が見て取れることになるわけです。しかし一方で、そんな制作の過程においても、“変わらない何か”もまた、確かにあります。二年前のRoomシリーズ紹介文で、作品の核となる部分を〝ある感慨〟や〝語るのが難しい〟などと煙に巻いた(あるいは言い訳めいた)表現をしておりました。この作品の制作を通じて、他ならぬ僕自身が知りたいと感じている、制作における衝動の正体を、適切な言説で切り分けられない苦悩が、この言葉には、図らずも滲み出ておりました。ただ、この〝ある感慨〟は、見上げた夜空の遠い北極星のように、今もって変わらずあの場所に位置している感覚もあり、その意味では時が止まっているような…しかしながら先述のように、変化しているという点では、絶えず動いているような…ちょっと妙な感覚です。目指す彼方の当て所を脳裏に浮かべ、同時に、自身の繰り返す内省が引き起こす変化を感じるのは、ちょうど歩く旅の道程で向き合う、旅人の心理のようでもあります。歩きながら目的の地を、いつでも見失わないように、霞む向こうに見据えながら歩みを進め、同時に自分の実感だけを頼りに、その“手づかみの経験”が教えてくれる道(もしくは未知)とも向き合う。いかにも手探りで、効率が悪い話ですが、この野暮ったいような繰り返しにこそ、地味ながらも、作品づくりの醍醐味があるように思います。以前のRoomシリーズの紹介文では、〝語り得ない何か〟といたしておりましたが、二年分の変化を経て、ようやく少しだけ見えてきたことがあります。それをあえて言葉でスケッチするなら、『私たちが素直に愛せる、こころが本当に静かだと感じられる場所』への感慨です。そして、その場にたたずみ、深く身を沈めたときに味わう、心のありようでもあります。例えば、部屋にたゆたう、西日であたためられた空気の香り。誰もいない窓辺で、人知れず舞うホコリが見せてくれる、昼下がりの陽射し。ふっと目覚めた夜半のしずけさの中、近くて遠くに感じる時計の音色。これは、決して寂しさや悲しさといった心情を連想させる情景ではない、自分ひとりと、この世界の間にだけ生じる特別な感慨。なのにそれを得るには、特別なことは何一つ必要がない。少しばかり心の感度を調整すれば、だれもが実感できるという点では、紛れもなく豊かなことであり、だれにでも訪れる幸運のようだとも言えます。さて、かつては、歩き出したものの、かすむゴールの地を指さして、あれを語るのが難しい、などとズルをしていたわけですが、二年の歳月を経て、あの道からこの道へ、道程が少しだけでも変化を遂げたようです。この道を踏みしめながら、かすみの向こうに垣間見えた、この『私たちが素直に愛せる、こころが本当に静かだと感じられる場所』というヒントを頼りに、もうしばし、旅を続けてみたいと思っております。来年は作品タイトルが変わりそうだなぁ…などと予感を抱きつつ。

 

★Room series(ルーム シリーズ)2019はすべて、東京日本橋馬喰町にある『Roonee 247 fine artsギャラリー』様にて実物をご覧いただけます。作品の閲覧・購入ご希望の方は、お気軽に直接ギャラリーにお問い合わせください。なお、作品はすべて1/1(モノタイプ※1点もの)となっており、購入済みの作品はご覧いただけない場合もございますのでご了承ください。


Tile series(タイル シリーズ)2019

技法:オフセット印刷 特色6色+UV厚盛印刷 / 用紙:ルミネッセンス(マキシマムホワイト・四六Y目220kg) / サイズ:364×515㎜

昔住んでいた街でのこと。三軒隣のお家の勝手口に、小さなドウダンツツジが植えられていました。それは北側に面した、道路と塀の間の狭い敷地に、細々とひっそり佇んでいたのですが、秋になると息を飲むほど美しい紅葉をみせるのです。小さな葉の一枚一枚が、まるで互いに色相のバトンリレーでもしているかのように、緑から朱色へ移り変わり、その繊細な立ち姿と美しいグラデーションが、遠目にはまるで内側から光を放っているかのように見えました。僕は人様の家の勝手口であることを忘れ、そのちょっと浮世離れした美しさに吸い寄せられ、(かなりの不審者というていで…)塀の隙間からうっとりと見入ったものでした。ところで、人は“色彩”というものを記憶するのが苦手だというのが、どこかの国の研究により、定説となっていると耳にしたことがあります。正確に記憶できないということは、つまり再現性にブレがある(昨日見たりんごの赤色を絵の具で再現することの難しさ)ということでもあるのでしょう。しかし、これまでの人生の中で、色彩がもたらしてくれる感動体験は、こうして数々の思い出となって、鮮烈に残っている実感があります。ですから、色の記憶を正確に“再現”できないとしても、記憶の中に息づく感動の印象を“表現”することはできるはずです。そうして表現された色彩は、経験に裏付けられているゆえに、近しい経験をしたことのある、他のだれかの共感を得る可能性もあるわけです。そこで試みたのが、厳選した色彩とシンプルな図形をリズミカルに組み合わせ、幾何学的な抽象図案へと変換し、体験した色彩の印象そのものを表現として再生させることでした。特定の具体的な図像に表現を依存させず(つまり具象とせずに)、色彩の感動体験が、自分に与えてくれたインスピレーションを、極力そのままに表現するようなその試みは、結果として、タイルを敷き詰めたような体裁となり、“Tile series”という名のアートポスター作品となったのです。このTile seriesの制作プロセスはこうです。はじめに、極小サイズの二等辺三角形や半円といった、極々単純ないくつかの図形を最小ユニットとして定めます。そして、それらには厳選した6つの色相を配色したなら、そこからは色彩がくれた感動の印象だけを頼りに、隣り合わせる図形のフォルムとその配色のフィーリングを探っていきます。それらの最小ユニットがいくつか集まった、2〜3色ほどからなる図案のグループが、いく通りか生まれます。さらに、そうして生まれた図案のグループを使って、同様にフォルムと配色のフィーリングを探りながら、次に大きな3〜4色ほどからなる図案のグループを生み出していきます。こうした組み合わせを繰り返すことで、徐々に予期せぬ複雑な図案が、まるで発掘でもされていくように姿を現すのですが、大切なのは、どの段階でも、色彩がもたらしてくれた感動の印象を手放さない、ということ。フィーリングを大切にしながら、極小の図形と配色の組み合わせに悩み、自分の中にある色彩の感動の印象にだけ忠実であり続ける作業は、正直さを試されるような、そうまるで苦行のようでもありますが(笑)、最後の最後でふっと顔を上げると、想像を超えた美しいパターンが、まるで目の前に広がる美しい景色のように待ち受けているものですから、記憶の印象に導かれる楽しさに、ちょっぴり味をしめたというわけです。ドウダンツツジやナナカマド、ムラサキシキブといった植物がみせてくれる色彩や、霧深い森や海、黄昏時の空など、実際に目の当たりにした、自然の色彩だけでにとどまらず、マジシャンの美しい振る舞いや、お茶の香りなど、感動が視覚的な体験ではなくても、ひとたび記憶の鍋に放り込まれると、思い出すたびに印象の色彩が、ありありとした実態となって、網膜を内側から染め上げるようで不思議です。このTileシリーズでは、そんな色彩の記憶を、細かく精緻な柄と、厳選た色彩で表現するために、FMスクリーンという精密な再現が可能な、オフセット印刷を採用しております。さらに、最小ユニットを組み合わせることで出来た、最初の小さな図案のグループである正方形をひとつの単位とし、UV厚盛印刷(ぷっくりと盛り上がるように透明のコーティングがなされる特殊印刷加工)による表面加工を施すことで、さらに色彩の彩度を上げております。また、この加工によって、盛り上がった感触と光沢感が生まれ、まるで小さなタイルのような、楽しい効果をも生んでおり、つい手で触れたくなるような、そんな仕上がりとなっております。さて、このシリーズを省みるに、人を取り巻く現実と想像のはざまを、曖昧で断片となりながらも自在に行き交う、そんな記憶の色彩がたてた、波紋のようです。でももしかしたら、“人は色を記憶できない”という、心の何処かで、なぜだかちょっぴり寂しくなるようなお話への、ささやかな抵抗なのかもしれませんね。

 

★このアートポスターは当サイト内の、SHOPページからオンラインにてご購入いただけます。ご希望の方はそちらをご覧ください。


A BOOK 〜しずかな こえ〜

絵・文 成澤豪

上製本(背を布クロスとした継表紙、表紙タイトル箔押加工、A4サイズ横、見返し、別丁)/オフセットカラー印刷/全32ページ)

子供の頃、日常生活に沢山の絵本がありました。文字が読めて、書けるようになるまでは(僕の場合、どちらも身につけるのが、少々のんびりペースだったようです)、母親に読んでもらうことがほとんどでした。いつものように、まずはタイトルコールに始まり、最初のページがゆっくりと開くと、目に飛び込んでくる絵と、母親の語り口調によって、あっという間にその世界に没入していったものでした。特に気に入っている絵本は、繰り返し催促するものですから、絵と語り、そしてページをめくるスピードまで、そのタイミングをすべて覚えてしまいます。ですから、当時は、たまに一人で絵本を眺める時、文字が読めなくても絵本の世界に、シンクロでもするかのように入り込めていたように思います。ところで、当時の絵本体験を思い返すとき、いつも不思議に思うことがあります。絵を思い出そうとすると、それがまるで動画(映画)のように、音が聞こえ、動いている絵として思い出されるということです。ページからページに移る、そのあいだのシーンは描かれていないはずなのに、なぜか一冊の絵の印象が、一連の動画のように思い出されるのです。また妙なことに、絵本の中で描かれたシーンを、なぜか違うアングルでも思い出せるものですから、どこまでが実際の絵本の中の絵で、どこまでが空想の産物なのかが判然せず、実にややこしい思い出となっているのです。さらに、不思議なのは脳裏に聞こえていた、語りの声を思い出そうとすると、もはや母親のそれではないということです。自分の声のような、絵の中の世界の架空の誰かのような、見知らぬ(あるいはちょっと知っている)女性のような男性のような、じつに曖昧なものとなっており、あえて言うならば、想像の“場の声”というのがふさわしいようにも思えるのです。この絵本体験には思い出としてみるならば、こんな不可解さはあるものの、自己体験としての違和感は、いまのいままで感じたことがなかったものですから、いまだに絵本を読むと、そんな感覚で向き合ってしまいます。さて、こんな奇妙でちょっぴりディープな絵本体験にインスピレーションを得て制作したのが、この“A BOOK(ア ブック)〜しずかな こえ〜”という、“一冊の作品”でした。それは自分が味わってきた、“絵本の能力”を借りた作品表現で、一枚のアート作品を鑑賞した際に、何らかの感慨を体験するように、一冊の絵本を読み終えた、その読後感を通して、同様の感慨をもう少し立体的に体験してもらえないだろうか、というもの。つまり、一枚の作品ならぬ、一冊の作品となるわけです。内容は、紙版画によるRoomシリーズの表現スタイルを採用し、“しずかな こえ”というインスピレーションで、新たに13点の作品を制作しました。またそれと同時に、同じインスピレーションを、言葉という手段でも表現し、詩のようなリズムと優しい言葉づかいで、作品の世界観をシンプルなストーリーに書き下ろしております。また、ストーリー本編は和文をメインとし、英文を字幕のように併記したバイリンガルとし、和英ともに表記書体は、絵と文がいざなう作品世界の“場の声”にふさわしくあるべく、A BOOKのためのオリジナル書体をデザインしました。そして、原画である版画作品の熱量とリアリティを感じてもらうため、本の判型は原画の原寸であるA4サイズにし、文字(言葉)と絵が、紙面の余白を介して、呼応し合い、ひと見開きごとにストーリーが進行していくよう制作いたしました。なお、本の体裁は、絵本のように繰り返し読み続けてもらいたいという願いのもと、丈夫な上製本で継表紙という仕様に致しております。さて、このA BOOKというタイトルは、“とある本”というニュアンスが込められております。本の中の“しずかな こえ”がもたらす読後感が、自身の経験や体験から紡がれる感慨と一体となり、この“とある本”が、“私だけの本”となり得たなら、こんなに嬉しいことはありません。

 

★この“A BOOK〜しずかな こえ〜”は当サイト内の、SHOPページからオンラインにてご購入いただけます。ご希望の方はそちらをご覧ください。また、A BOOK(冊数に限り有り)と、その原画となっている紙版画作品のすべてが、東京日本橋馬喰町にあるRoonee 247 fine artsギャラリー様にて、実物をご覧いただけます。作品の閲覧・購入ご希望の方は、お気軽に直接ギャラリーにお問い合わせください。なお、作品はすべて1/1(モノタイプ※1点もの)となっており、購入済みの作品はご覧いただけない場合もございますのでご了承ください。


Friends series(フレンズ シリーズ)2018

技法:紙版画 / 用紙:ファブリアーノ / サイズ:297×420㎜ / エディション:モノタイプ

なぜ、動物なのか。無類の動物好きかと問われれば、そこまではないのですが、例えば興味のきっかけが図鑑であれドキュメンタリーであれ、ある動物をひと目見てなぜか気になりだすと、今はインターネットなどでさらに詳しく知ることもできますから、ついついの入れ込んでしまいます。特徴的な容姿、動き方、鳴き声や生息地、何を食べているのか、どんな社会性をもっているのかなど、その動物にまつわる様々な“情報”を知るほどに、興味が尽ません。そう、尽きないというのは満たされない、ということの裏返しでもあるわけでして、どんなにその動物の“情報”を頭の中に積み上げて見ても、そもそもなぜ動物なのか、そしてなぜ描いてみたいのか、が今ひとつはっきりとしませんでした。どうしても動物を描いてみたいという作品制作への衝動だけはハッキリとあるものの、その動機がぼんやりとしていたせいで、最初はなかなか手が動かせず、悶々とした日々を過ごしておりました。そうこうしているうちに、仕入れた情報は所詮、にわか仕込み。知識として得た動物たちのプロフィールは、山間に立ち上る霧のように、徐々に自分の中からたち消え始めたのです。と、そのタイミングで唐突に、動物作品への衝動の“なぜ”つまり動機が見え出したのです。それは動物たちの“眼差し”でした。大自然の厳しさを物語る、命がけで獲物を狙うときの、矢を射るような眼差し…と言いたいところですが、実は心を掴まれたのは、それとは正反対の眼差し。つまり、動物たちの日常生活における、普段のなんということもない状態の目、いわば“無手の眼差し”だったのです。無手というのは、手に何も持たない素手のさまを言うのですが、そこから意味が転じて、狙いも方策も練らぬまま事にあたるといった、悪く言えば行き当たりばったり、よく言えば、構えのない…といった意味合いも指します。それは、うだるような暑さのなか、日陰で涼をとるライオンが、彼方にゆらぐキリマンジャロを、見るともなしに眺める眼差し。水を求めて、乾季のサバンナを黙々と歩き続ける象の群れが、すれ違う鳥を一瞥するときの、無関心が漂う眼差し。そんな瞬間を見つけると、種を越えて人にも通じる、“普通という心境”を垣間見るのです。それは条件反射のときもあれば、生理反応のときもあり、細かなことを言えば、何らかの合目的性はあるのでしょうが、あの眼差しから垣間見られるのは、動物たちが、それぞれに与えられた人生を過ごすにあたって、繰り返しの日常のなかで芽生える、“いつもの心”の存在と証明のように思えるのです。そして、僕はその瞬間を見つけると、不思議な共感と安心感を覚えていたのです。特に驚くのが、ほとんどの動物に共通する母親が子供へ向ける眼差し。北米にいるアメリカバイソンなどは、何かをめぐって争う際の眼差しは狂気そのものです。目は血走り、泡を吹きながら、巨体どうしがぶつかり合うのですから、そんなところに“動物が好きです”とお邪魔しても、友好関係は結べそうにありません。しかし、母と子が寄り添うひとときともなれば話は別です。アメリカバイソンも、母が子を見つめるその眼差しには、透明な理性と深い慈愛が宿り、今なら話しかけても大丈夫そうだ、そう思えてしまうのですから不思議です。それは電車の中で出会う、眠る我が子を見つめる、ごく身近なお母さんと同じ眼差し。これは生きとし生けるものにある摂理だと、頭で理解はしても、人間社会の城壁の内側で暮らしている身としては、野生にこれらの眼差しを見いだすと、やはりとっても得した気分になるのです。異国で同郷の人と出会ったような嬉しさで、手のひらやほっぺたが熱くなります。そして、ああ、これが描きたかったのだなぁと、ようやく腑に落ちると、いよいよ作品制作への機が熟すわけです。本や画面をパタリと閉じ、仕入れた情報は綺麗にリセット。用意した紙に、下書きをせず(つまり描写において、細かいことはこだわらず)衝動だけを頼りに、まっさらな紙から脳裏にある印象を、ハサミで一気に切り出します。そうして出来た紙の動物を版にして、一枚づつ刷り上げた素朴な動物たちは、何と言いますか…自分を含めた、周りにいる誰かと、どこか似ているから可笑しなものです。自分と同時代を生きる、互いに与えられた日常を正直に生きる、そんな眼差しを前にしてしまうと、出来た作品はどうしても“Animals”とは言えず、“Friends”となるわけですね。

 

★Friends series(フレンズ シリーズ)2018はすべて、東京日本橋馬喰町にある『Roonee 247 fine artsギャラリー』様にて実物をご覧いただけます。作品の閲覧・購入ご希望の方は、お気軽に直接ギャラリーにお問い合わせください。なお、作品はすべて1/1(モノタイプ※1点もの)となっており、購入済みの作品はご覧いただけない場合もございますのでご了承ください。


Nuance series(ニュアンス シリーズ)2018

技法:水性顔料ペンによる彩色 / 用紙:ヴァンヌーヴォー / サイズ:420×594㎜

初夏の黄昏どきのことです。夕飯を外で済ませ、たまには歩いて帰ろうかと、夫婦連れ立って家路につく道すがら、ビルの間合いにのぞむ、空の色の美しさに目を奪われました。それは、光の主役が太陽から星々へと移りゆく、広大な空で静かにうつろう“間(あわひ)”のとき。東の空は濃紺色。これから大気を覆い尽くす、鎮もる夜の色です。西の空は水浅葱色。かなたの世界の夜明けの色でもあるわけです。夜の空は剥き出しの宇宙だと気がつくと、その神秘的な美しさに目眩を覚える一方で、かすかに残る夕日の残光に、今日という時の背中を見送るようで、心がさわめきます。こんな“間(あわひ)”のときは、瞬く間に過ぎ去るものですから、見上げ続け、歩み運びがおろそかになりながらも、願わくばその美しさの理(ことわり)を見出したい、などと思ってしまうのです。写真であれスケッチであれ、野暮と承知で空に映った宵のドラマを、幾度となく“記録”しようと試みるのですが…さてどうしたものか、欲しいものはいつも、理性と理解の網の目をすり抜けていきます。まるでマジシャンの華麗な技に、心地よくあざむかれたときのように、気がつけば、余韻だけを抱きしめているのがおちなのです。地球を外から見おろした宇宙飛行士たちが、足がすくむようなその美しさに、人生感を一変させるといいますが、地球はこうして内から見あげても、歩く足元を見失いそうになるほど美しい、ということです。ではこの美しさの理、言い換えるなら、美しいと感じる体験の正体とは、一体なんなのでしょうか。素朴な疑問のようで、その実、空に広げた大風呂敷のような問いです。帰路もいよいよ終盤、空もすっかり夜に包まれ、ようやく、ただいまと玄関先にたどり着くころ、僕にはひとつのイメージが浮かんでいました。それは、先ほどまでうっとりと見つめていた、空の“間(あわひ)”のとき、つまり夜と昼、二つのはざまに生まれたうつろいの風景に見出したイメージでした。夜でもなく、昼でもない。夜とも言えるし、昼とも言える。この夜と昼の“違い”の間に芽生える、不均衡の刹那(せつな)には、夜や昼という大振りで限定的な観念が無くなり、極めて微かな違い、つまりニュアンスの連続的な階調のみが、西の端から東の端いっぱいの空に広がっていたのです。この不均衡には、人を戸惑わせる力があり、それがときに、見る者おける経験の読後感を、美や愛といった心情へと導くのではないかと思ったわけす。大空を舞台にした、昼と夜という壮大な違いだけではなく、和紙に落とされた墨がみせる、滲みという墨と紙のせめぎ合いのような、小さくて微かな違い。さらには、物理的な現象や事象にとどまらない、意味合いや心理、関係や状況などの領域にも見出せます。無償の愛を信じあう親と子の間に、それでも横たわる人生の違いであったり、言葉という存在を信じる、語り手と聞き手につきまとう疎通と齟齬であったり、日常には、実にたくさんの相違が潜んでいることに、気がつくのです。僕たちのこの世界が、広義の意味合いにおいて、“違い”でできているとするなら、この“違い”どうしが、調和や均衡へ向かおうと、手を取り合い、抱きしめ合い、互いの差を埋めようと、つまり“繋がろう”とするとき、そこに生じる“事象の戸惑い”にこそ、私たちが“美しい”と感じることの本質と、そう感じることができる“チャンス”も、同時に潜んでいるように思えるのです。このNuance(ニュアンス)という作品は、そんな美しさにまつわる、自分なりの体験を、厚紙に水性顔料ペンで描き込んだ、ペン画作品のシリーズです。具象と抽象の違いを意識し過ぎないよう、インスピレーションを心に留めたなら、ペンでひたすら塗りあげます。細いペンで広い面のすべてを、一度に塗りつぶすのは、ままならないことではありますが、生じる塗りムラを恐れず、ただひたすら幾重にも塗り重ね続けていきます。すると次第に単なる塗りムラであったものが、絵全体の印象を支えるような、ニュアンスとなって立ち現れるのですから不思議です。


Room seriesルーム シリーズ2017

技法:紙版画 / 用紙:シリウス / サイズ:297×420㎜ / エディション:モノタイプ

ここのシリーズは、語るのがどうも難しいのです。例えば、明け方、ふっと目が覚めて、ベッドから抜け出し、ダイニングテーブルの上にある、飲み残しの水が入ったグラスに目がとまります。部屋を満たすのは、未だ夜半の名残感じる、紺青色(こんじょういろ)の空気。明かりをつけずに椅子にもたれ、体が目覚めるのを静かに待っていると、部屋の暗い光に目が慣れていき、目の前の無作為に置かれたグラスが美しい物語のように浮かび上がって見えてきます。いつもの生活の場にある、自分の昨夜の痕跡なのに、グッと心を掴まれる感覚があります。まるで他人事のような不思議な距離感が、心地よい戸惑いとなって、なにか気づきへと導いているようでもあります。確かに、テーブル上の情景は、単にまるで静物画のようだ、と語るだけでは割り切れない、何かがあるようなのですが、しかしこれを自覚するのが、とりわけ難しい…。そこで、しばらくのあいだ、生活のなかで、似たような感覚に見舞われたときの、自分を取り巻く状況と、そこで得た心理をあらためて思い返してみるようにしたのです。そして、ある時ふっと、ひとつのイメージに思い至ります。それは“自覚の隙間”です。しかし決して無自覚という意識の空白ではなく、あくまで自覚という日常生活を送る上で必要な、連綿とした意思の中に生じたブレス(息継ぎ)のようなものに近いかもしれません。降り注ぐ真昼の光に打たれながら、ゆっくりと階段を登るとき。普段は交通量の多い大通りが、何かの拍子に、ほんの一瞬だけ静まり返ったとき。食事中、大きなお皿の上に最後のひとくちが色鮮やかに残っているとき。この一瞬に、まるで古いオルゴールの音色を奏でる、パンチカードの穴のように、そう、程よい“自覚の隙間”から、ハッとするほど美しい一音だけが、不意に飛び込んでくるのです。そして次の瞬間には、日常の続きが再び巡りだし、それと向き合うに必要な意識も巡りだします。まるで何事も無かったかのように。ほんの一瞬だから、気付かないかもしれません。気付いたとしても、すぐに慣れてしまうかもしれません。しかし、たしかに言えることは、この程よい“自覚の隙間”さえあれば、いつもの自分が、いつもの暮らしのなかで、自分だけが知り得るの美の感慨に出会えそうだ、ということです。この作品は、架空の空間を紙版画という手法で描いたシリーズとなっております。床、壁、階段、窓、扉などを描くことが直接的な目的ではなく、空間を満たす、光や壁などの質感は、紙を版とすることによって生まれる、特有のかすれや濃淡で、空間に満ちる空気感を表現しております。そんな作品に込めた一つ一つが、鑑賞してくださる方々の内にある、“自覚の隙間”を通じて経験しているであろう、自分だけの音色を自覚できるきっかけとなれたなら、こんなに嬉しいことはありません。このシリーズはすべて、紙を版にすることで得られる風合いと引き換えに、版画の複製性と矛盾する、一枚しか得られない成果(モノタイプ)という、なんとも歯がゆいような、表現手段にたどり着いてしまっております。したがって制作実感が、“刷る”というよりは、“描く”に近く、どの作品も、この語りにくいある感慨を、文字通り、込めるように馬連で描いたものです。一見するとなにもないような、そんな部屋(Room)に満ちた、“なにか”が伝われば、嬉しい限りなのですが、このシリーズは、やっぱり語るのが難しいですね。

 

★ここで掲載した10作品中、3作品(#02、#06、#08)は、2018年2月3日~2月18日に青森県立美術館にて開催展示されました「AOMORIトリエンナーレ2017 Classical部門 棟方志功国際版画大賞」の入選作品となります。


Toy series(トイ シリーズ2017

技法:紙版画 / 用紙:和紙(雁皮) / サイズ:297×420㎜ / エディション:モノタイプ

幼い頃の話です。とにかく遊びが大好きだったのですが、好き過ぎてか、遊びじゃないことまでも、遊びにしてしまう始末。授業が終わると、男女問わずクラスメートのほとんどから、今日は何して遊ぶの? と尋ねられる日々が当たり前のようでしたから、完全にクラスの遊び担当といったところでしょうか。子供が好きなスポーツはもちろん、今思えば謎のスポーツ(?)を即興で考え、さらに独自のルールのもと、他のクラスも参加し対抗戦のように遊んでみたり、ちょっと不思議なシチュエーションのママゴト(かなりの人数で臨む、大ママゴト!)を、独断の配役とオリジナルの演出をして、自らも劇中に没頭してみたり。つまり小さめな自由人が、かなりの自由な毎日を送っていたわけです。日が暮れるまで、そんなふうに、外で充分に遊んだはずなのに、家に帰ってもいまだ未知なるエネルギーを持て余しているのか(笑)、工作、お絵かき、積み木やブロック遊びなどで、一日のシメを、やはり遊びで過ごしていたように思います。ことさらブロック遊びでは、その最中はもう、ほとんどトランス状態です。たった一つのブロックでも、ひとたび手に持ってしまったなら、空想(妄想とも)の世界に住む、もう一人の我が声に抗えず、テレビもそっちのけで、のめり込むのです。空想の世界…。そこでは“辻褄”なるものは、一番はじめに手放すのが、自由人としての作法。そして、まるでしりとりでもするかのように繰り広げられる“思いつきと連想”は、徐々になにかしらの流れを帯び始め、やがて“荒唐無稽な物語”にまで成長するのが、いつものパターンです。念じるだけでどこにでも連れて行ってくれる飛行機や、水中も火山の中も潜れる冒険者には必須のレーシングカー。幸せな気分になれる音色が出せる美しい楽器や、欲しいをすぐに縫い上げてくれる魔法のようなミシン。目も眩むようなお城には、とにかく可愛い謎の生き物いて、そこには絶対に減らない大好物があるのです。それまでの自分の人生(当時の年齢までの人生、ということですね)で知ったことや、当時の欲望を満たしてくれる、浅はかな理想主義を総動員し、頼まれたわけでもないのに、ひた向きに物語を創造していくのです。ありとあらゆる“大好き”が登場し、そんな、めくるめく物語の変化変容に、手にしたブロックは呼応しながら、次々とその空想世界の“大好き”たちを具現化していきました。さて、この紙版画という手法による作品、“Toy series(トイ シリーズ)”は、そんな自分の“大好き”、つまり、どうしても心を寄せたくなる“衝動”と純粋に向き合い、その衝動を、空想世界から少々拝借し、“遊びの姿”として描き出したのが、この作品シリーズです。モチーフの中心となったのは、19世紀後半から20世紀前半の技術革新が生んだもの。当時の人々のテクノロジーへ対するジレンマと、それ対して、エレガンスをもってしてバランスを保とうとしたことの、結果としての道具や機械のたたずまいに、如何ともしがたい愛おしさを感じるのです。この作品シリーズは、これまでの自分の人生(現在の年齢までの人生、となりますね)で得た、知見から生まれた、ということになるわけですが、そういう目でマジマジと眺めてみると…うむむ、小さめの自由人だった当時と、あまり変わっていないようなでもあり、発表するのが、ちょっぴり恥ずかしい気もしてきます。作品を制作するときは、紙をパーツごとに切り出し、それぞれに版画インクで着彩したなら、ひとつひとつ絵となるように馬連で刷っていきます。まるで積み木を組み上げるときのよう、少しずつ慎重に。版画作品と申しましても、紙を使った版の場合、その強度が弱く、せいぜい刷れても4〜5枚ほどで、その中でもコンディションが良いものは1点あれば良い、といった具合ですから、エディションは全て1/1(モノタイプ)となるわけです。妙に手間ばかりかかるわりには、仕上がりに報われにくい手法ですが、そのかわり、創っているあいだは、深く空想の世界に遊べるので、やはり、あいも変わらず、手が止まらないのだと思います。

 

★ここで掲載した作品の一部は、カッシーナ・イクスシー青山本店内2階のアートギャラリー“ARTE ANELLO(アルテ・アネッロ)”にて、GIFT BOX SET(シート5枚組1セットを2セット限定でカッシーナ・イクスシーオリジナルパッケージ入り)と、額付き単体作品としてお取り扱いいただいております。作品の閲覧・購入ご希望の方は、お気軽に直接ギャラリーにお問い合わせください。なお、作品はすべて1/1(モノタイプ※1点もの)となっており、購入済みの作品はご覧いただけない場合もございますのでご了承ください。


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