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特別企画 ギャラリーとの往復書簡

いつもWorks & Wordsをご覧いただきまして誠にありがとうございます。

さてこの度、日本橋小伝馬町・馬喰町にあるギャラリー Roonee 247 Fine Arts様のウェブサイトにて、『ルーニィ杉守と作家さんの往復書簡 〜読むギャラリー〜』と題し、約1ヶ月にわたり全5回の連載をさせていただきました。往復書簡のスタイルで、ギャラリストの杉守さんのアートやギャラリーへの想いをお伺いしながら、作品や作品制作に対する質問をお受けし、それにお答えして参りました。美術館やギャラリーが休館休廊している状況下で、アート作品を違う視点で体験する場として、スタートした企画でした。ギャラリー様にご承諾いただき、往復書簡を1回から5回まで、以下に連続掲載いたしますので、ご覧いただけましたら幸いです。

 

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〜往復書簡 1回目〜

 

●拝啓 成澤豪 様

 

2020年は「Toy」「Nuance」2シリーズの企画展でお世話になります。

昨年2019年は、紙版画作品「Room」「A Book」「friends」の3作品を展示していただきました。

 

他の会場での額装のご相談で成澤さんがルーニィに来てくださったのはちょうど1年前。その時、紙版画作品「Room」を拝見し、頭の中に光がピカピカとしました。

何だろう?!もう心が飛び跳ねてしまって、未知の楽しいものとの出会いです。

 

初めてペンギンを見たときのような

初めてオムライスを食べたときのような

 

その額装の仕事が終われば、普通次のご依頼まで会うことがないわけですが、

成澤さんの作品をもっと見たいという衝動が抑えきれず、連絡をして、アトリエに失礼ながらお邪魔しました。

あの時は失礼いたしました!

 

今年は3/31からリコメンドウォールで「Toy」が始まっております。

昨年の繊細な影のグラデーデーションと、また違った色の選び方。

成澤さんにとって「色」とは、何でしょうか?

また、ドローイングではなく、版画という手法で「Toy」を制作したのはなぜですか?

 

杉守加奈子

 

 

○杉守様

 

お便りありがとうございます。その節は本当にお世話になりました。初めての作品展で、右も左もわからずおりましたから、杉守さんのご経験値とお人柄に、牽引していただけたことが、大変心強かったことを思い出されます。偶然から紡がれたご縁が、一年後、このような状況にまで育まれたことを思うと、作品を作り続けていてよかったなぁと、つくづく思うところでして、また、大切に制作した作品たちに、僕自身が応援してもらっているようだとも感じております。

 

そして、そんな作品たちへの有り難いご感想!! ただただ、嬉しいばかりです。僕は、制作が首尾よくいくと、妻の目の前で、小躍りして(いるらしいです)喜び、そうして出来た作品を彼女に褒めてもらえると、さらに大喜びしますから、どうやら褒められたい一心で作っている…とも思えてきますね(笑)。ですから、褒められると、どうしてもまた作りたくなります。

 

昨年、参加のお誘いをいただいたグループ展企画を皮切りに、リコメンドウォールを含む2つの作品展が、生まれて初めての個展でしたから、つまりアトリエ(と呼べるほど立派ではないのですが…)にお越しいただいて、作品を見ていただくという経験も無いわけで、大変緊張していました。こちらの方こそ失礼がなかったかと、ヒヤヒヤです。

 

さて、現在リコメンドウォールで開催いただいている『Toy』へのご質問ですが、「色」へのご質問に触れる前に、なぜドローイングではなく、版画という手法なのか…という点にお答えしたいと思います。

五年ほど前に遡るのですが、他のシリーズ作品も含め、すべての作品制作の始まりは、一本の線をひくことでした。発表するあてはないのに、衝動だけはあり(笑)、何かの裏紙を活用し、夜な夜な描く線。そのうち、いろんな筆記具で、いろんな線を描くことを試したくなり、そうして描いていくうちに、次第にコラージュのようなものへ変化していくのですが、ほぼ毎晩、一つの作品を作り、妻に見せては褒めてもらう(あ、やっぱり褒めてもらってる?!)を繰り返していたのです。

 

そんなあるとき、コラージュの延長で、身近にあった紙の切れ端を使って、絵の具か何かを塗りつけて、スタンピングをしてみたら、版画的なことがとても楽しかったわけです。銅版画やシルクスクリーンの作家さんのような専門的なスキルも環境もありませんが、紙を版にした“紙版画”なら、今ある条件のなか、自分の試行錯誤次第で、感じていることを表現できるかもしれないと思い、その後、膨大な試行錯誤を重ねながら、どんどんのめり込んでいったのです。ですから質問にお答えするならば、はじめは一本の線、すなわちドローイングからはじまり、紙版画という手法は、色々と手を動かしているうちに、そこから枝分けれした表現のひとつ、ということになりますでしょうか。

 

今でも線を描いたり、切ったり、貼ったりなどを絶えずやっており、紙版画においても、相変わらず様々なトライを繰り返しておりまして、そんな試行錯誤の道程の、“今”という時点を抜き出したのが、現在展示いただいている『Toy』という作品、ということになりますから、もしかしたら『Toy』というテーマのままで、ドローイングや彫塑のような表現へと、変わっていく可能性も、あるかもしれませんね。

 

僕にとって「色」とはなにか、というご質問ですが、それは生活や人生で得た「喜び」そのものです。そしてそれはいつも、何らかの姿(情景)や概念、経験や実感と、表裏一体のような状態で、僕に訪れることが多いように思います。先述のドローイングでもコラージュでも、毎晩妻に発表し、鑑賞してもらっていると、この色はあの時見た花の色みたいねとか、昨日食べたお夕飯のあの味を連想させる線だね、ということを言ってもらっておりましたから、考えても見れば、日常生活で得た嬉しいことが、そのまま反映されているのだと思います。

 

美しい光もあれば、美しい影もあり、美しい音色があれば、美しい沈黙もある。

毎日の生活の中で、そんなことに気がつける瞬間に出会うと、嬉しさのあまり、いてもたってもいられなくなりますので、そんな風に何らかの印象(インプレッション)を目の前で得た時には、すでに「色」を直感(インスピレーション)している、つまり描くべき色彩を、この世界から頂戴しているのだと思います。

 

しっかりとお答えできているとよいのですが、いかがでしょうか(ドキドキです)。

 

成澤豪

 

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〜往復書簡 2回目〜

 

●成澤様

 

お便りありがとうございます

成澤さんの小躍り、私もそっと物陰から拝見したい!!

 

多分ギャラリーのディレクターは、作品を初めて見る他人かと。

とても贅沢な仕事で、その大切な作品と作家さんを世の中に紹介できる最高の仕事だと思って生業としています。

今、コロナウイルスの蔓延でおうちでこれを読んでいる方が多いと思いますが、

人類の歴史の中で、疫病、戦争、ホロコースト、自然災害など危機的な状況がありました。

そのような状況の中で、命をつなぐことに一見必要のないアートですが、

今まで無くなってないということは、人間に、心に必要だからなのだと信じております。

 

だから、本当に嬉しかった!

成澤さんの作品に、成澤さんに出会ったとき、本当に嬉しかったんです。

なんと穏やかな、心踊る作品なんだろうって。

アートはやはり人が人間らしく生きていくのに必要なのだと。

 

「すべての作品の始まりは、一本の線をひくことでした」

と前回のお手紙にありましたが、そういうことなんだなあと妙に納得しました。

ご自身の身の回りにあるものを使って、表現の幅が広がっていったのですね。

そしてそれが私たちに届いた。

 

あ、やばい。まとめのような文章になってきてしまった。

ごめんなさい、感動屋さんです。お許しください。。。

 

さて話を戻しますね。(こほん!) 今回のToy、様々な乗り物がですが、

絶妙な引き算で、シンプルな形が描かれているように見えます。 そのシンプルさ故に見る人が自分の思い出の何かから想像を膨らませ、共感を呼ぶ「余白」になっています。

そして、描くものは紙の30〜40%くらいに描かれています。 描かれる大きさによって、まるで違って見えますよね。

成澤さんは「サイズ」や「余白」をどう考えて制作されていますか?

 

杉守加奈子

 

 

○杉守様

 

お返事ありがとうございます。

杉守さんのギャラリストとしてのアートへの想い、そしてパッションが、明るいお人柄とあいまって、作家と作品、そしてギャラリーを訪れる人々を惹きつけているのだと、あらためて感じるお手紙でした。作家やその作品自体が持つ“意思”を、まるで自分のことのように感応されていらっしゃるようで、アート憑依体質(?!)と言えるほどかもしれませんが、可愛らしく言い換えるなら“感動屋さん”ということになるのでしょうね。アーティストにとっては、こんなに嬉しい味方はおりません。

 

さて、今回頂戴した質問の「サイズ」や「余白」について。

このご質問に、少しだけ勝手な意訳をお許しいただけるなら、サイズ、余白の問いに挟まれて「フォルム」という問いの暗示もあるように思いました。これら3つの要素は本来、連星のように密接で、互いに影響しあっておりますから、つまりどれか一つだけを語ることの難しさがありますね。しかしこの3つを同時に束ね、作品制作時ともなれば、完成のその瞬間まで、気に留め続けなくてはいけないことがあります。それは「バランス」です。Toy作品シリーズにおいての「バランス」をお話しすることが、問いにお答えすることになるかもしれません。

 

まずはじめに、「フォルム」のこと。

自分が“気になる”モチーフと出会うと、それが乗り物であれ、道具であれ、2つの癖がムズムズとしてきます。

どこに惹かれたのかを知りたくて、それをずっと長いこと見つめ続ける、最初の癖。見つめ続けた挙句に、ああ、ここがこうなっているから好きになったんだなぁ…と、自分なりにやっと納得すると、今度は膨大な数の似たモチーフを、手当たり次第見て、その納得自体をどうしても確かめたくなる癖です(笑)。気になるという予感から始まり、“好き”という本心を手放さないで、深く広く気が済むまで追いかけるうちに、好きを支えるエッセンシャルなものが残ってくるのですが、僕はこの正体は、物事を人が理解しようとする時に最初に頼りにする「らしさ」なのだと感じています。

出会ったモチーフから、いかにして「らしさ」を、すっ…とすくい取れるか。

これが上手くいくと、一見、引き算されたかのような、“らしさのカタチ”が浮かんでくるわけです。そんなフォルムがもたらす印象が、きっと杉守さんが評してくださった、共感のための「(心理的な)余白」という効果を生んでいるのかもしれませんね。

 

そして「バランス」について。

実はここでもう一つ、Toy作品において大切だと感じていることがあります。

それは“可愛げ”という美意識です。“正しさ”と“でたらめさ”が共存することで生まれる、この“可愛げ”が、なるべく際立つように気を配っております。

用紙の風合いとそのサイズの選択に始まり、その中にあって、モチーフのフォルムが、絵そのものの佇まいとなって映えるモチーフサイズ(すなわち絵的な余白)。それらが全てが影響しあって、つまり「バランス」を取り合いながら、絵の雰囲気や印象を醸しているのだと感じます。絵は、パッと見た時に何を感じるか…に、人と作品の間で繰り広げられる交流のすべてがありますから、その点で言えば、絵における色彩、フォルム、サイズや余白などが、“言葉”であるなら、バランスというのは、作家が作品に対して与える、“文法”のようでもありますね。

バレンを振るう度に願うのは、まだ見ぬ誰かにとっても、“好き”となれるといいなぁ、ということ。だからこそ可愛げが大切で、それは作品たちが、僕のような制作者以外の人々と、もっともっと幸せな出会いを得るために必要なことであり、作品にそっと忍ばせた、他人のための“余地”ともいえ、ここまで来てやっと、作品へ対して、本当の意味で自分が求める「バランス」が取れてくるように思います。

 

こうして作品が生まれる背景を、文字で書き出すと、少々息苦しいように聞こえますが(笑)、実際の制作中はただただ楽しく、時間を忘れてしまいます。そして、これらすべてが上手くいくと、例によって(門外不出の)小躍りをするのですが、そう上手くはいかないことも多々ありますから、その時は落ち込み、静かにグズるらしいです(笑)。でもそんなときは、妻にちょっと慰めて(嗜めて?)もらい、美味しいご飯を食べたなら、明日また頑張ろう…となり、つまりそうやって、僕と作品たちは、彼女に心身のバランスを取り戻してもらっているわけですね(笑)。

 

余計な話も多いなか、お答えとして、的を射ていればよいのですが(雑念が多く、2通目でもまだドキドキします)。

 

成澤豪

 

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〜往復書簡 3回目〜

 

●成澤様

 

お返事ありがとうございます。

サイズ・余白から、フォルム・バランスの話に。

 

ルーニィは元々写真専門ギャラリーとしてスタートしたので、カメラやネガと印画紙、デジタルを道具に作品を制作されている方が圧倒的に多いです。

そうすると、作品を販売する際に展示は大全紙だけど、販売用にインチサイズもということがままあり、確かに東京のマンションで飾るには小さいと飾りやすいというのは理解できますが、作品は変わってしまうのです。もちろん、古典技法を除き、ネガやデータが「版」になり大きさを自由自在に変えられ、複製が可能なのが特徴ですが、「描かれている”情報”だけが作品を成しているのか?」と疑問に思うことがあったのです。

ここまで書くと「杉守、先に言ってよ」と成澤さんに怒られそうですが。。。サイズや余白のことを伺ったのはそういうことからでした。

 

決して大きすぎない成澤さんのToyは、幼い頃作った積み木の乗り物やお家(お家はありませんが。。)を思い起こさせるサイズ。

そして近づいて見たときの線に宿る緊張感。絶妙なバランスのなせる技なのだなと、お手紙を拝読しながら”なるほど”と膝を打ちました。

今まで拝見したすべての作品に感じた、一見した時の柔らかさや清潔感と鋭い緊張感、考え抜かれたバランスがお話を伺ってより一層、成澤さんの人としての印象と重なりました。

 

ギャラリーにおりますと、作品に関して意見を求められることがあります。

もっと新しいチャレンジをすべきなのか、とか

オリジナリティをどう出して行けばいいのか、というようなことです。

しかしながらオリジナリティというのは、「出す」のではなく「出てしまう」ものだと私は考えます。

なので雑談の中や、NGにした作品なども拝見して(写真だと無数に写していることが多く、既視感のあるものを選んでポートフォリオにして差し出されることがままあります)その方の興味や癖を探していきます。

 

生きている中で、アートに興味があり何か作ってみようという方は、人生の中で通ってきた作品、感銘を受けた作家がいると思います。

家族や友達、環境などもにも影響され、作品に漏れ出てくるものです。

 

杉守加奈子

 

追伸:最近プランターでルッコラを育てており成長を見守っております。

太陽の光を浴びて、一瞬昨今のコロナからの不安な気持ちを忘れ、その鮮やかな色にグラスグリーンタグボートを重ねて愛おしく愛でております。

 

 

○杉守様

 

お返事ありがとうございます。

お手紙、大変興味深く拝読させていただきました。

ギャラリストとして、これまで沢山の写真家さんや買い手さんと出会い、そして数えきれないほどの作品を、見つめ続けてられてきたこその視点が、随所に感じとれる内容でした。僕はこれまで、個展を通じたギャラリー様との接点がなく、ゆえにギャラリストというお立場への不理解も多いものですから、頂戴する質問のその奥にある、意味することへの理解が遅くて、本当に失礼致ところです。ギャラリストとしての研鑽の積み方は、人によって様々とはおもいますが、杉守さんのお話から感じるのは、“作家と作品と自分”という、自分の手が届き、そして触れることができる、つまり関係性の確かさを前提とした中に芽生える、ご自身の正直な実感や手応えを大切にされておられるのだな、ということです。そしてこのことが、ルーニィのギャラリーとしての、独自性を彩るものであり、そして人々を惹きつける、魅力の核になっているのだなぁ、とあらためて感じます。

 

僕は自分自身が、作品と呼べるものを作りはじめてから、まだ数年でしか経っておらず、故にアートを語る際の言葉が貧しく、お恥ずかしいのですが、お便りに書かれていた、前回のご質問(サイズと余白)の背景にあった、「描かれている“情報”だけが作品を成しているのか?」という感慨について、僕なりに思うことを書かせただきます。

サイズは作品から聞こえる声のひとつで、大きいサイズだから深く鳴り響く声もあれば、程よいサイズならではの、心地よく親のある声というのもありますね(ちょうど楽器と音色の関係のように)。ですから、直感的な物言いですが、「ボクは、どんなサイズで作りたいのか…」や、「ワタシが感動した作品はどんなサイズだったか…」ということ、つまり作り手にとっても、鑑賞者にとっても、それは非常に大切ということですね。

 

また、杉守さんのお言葉の中にある、“作品を成すもの”について、自分の作品と、その制作過程を少しばかり省みたいと思います。

作品にかけた理想としては、それが僕の手を離れ、鑑賞者によって、自分のものとして、または、自分のこととして、見つめてもらえる状況が望みですから、その状況に少しでも届くために、作品制作で大切にしていることがあるとすれば、それは作品自体の“物性”であるように思います。支持体である紙(仕上がりの印象を左右するので、厚さや質感が大切!)はもちろん、版として切り出された紙(考慮するべきことが色々あって…これも厚さや質感が大切!!)も、版に対するローラーの塗り加減、そうして転写されたインキ部分、そのほか様々な要素が、互いの物性を活かしあえるように、試行錯誤します。その結果が目指すのは、作品を介した作り手と鑑賞者の、感情の共通了解で、そこに向けて如何にイメージや素材を、編み上げることができるか、が重要になります。これは、紙と絵柄を“地と図”のような分離した関係として見ているのではなく、すべての要素(物性、表現イメージ、製作者としての感慨、見てくれる方のための余地)が、ひとつのイメージに向かって織り混ざりながら一体となっていかないと、目指す作品には“成らない”というニュアンスが込められております。だから、前回のご質問にあった、サイズや余白「だけ」を抜き出して語ることが、器量不足で難しく、“フォルム”、“バランス”、“らしさ”、“可愛げ”などの話しに及ぶような、長〜い話となってしまうわけですね(話しは短いほうがいいです…笑)。

 

さて話しが移り、お手紙にはギャラリストとして、作品への意見を求められる、と書いていただいておりました。とてもやりがいがお有りなのだろうなぁ、と思う一方で、やはり大変なお仕事だなぁ、ともお察しいたしております。僕などは生来、緊張しやすく、加えて本当は大変に人見知り(ご存知の通り!)ですから、相手が求めることだとは言え、その発言に影響と責任が伴う状況を想像すると、勝手に胃が痛くなり、勝手に今夜は寝られなくなりそうです(笑)。杉守さんには、そんな数々のご経験の中で得た境地があって、”オリジナリティとは、出すのではなく出てしまうもの”というお言葉が紡げるのですね…。

 

ここで、そのお言葉を道標に、作家として、我が身を振り返るとどうか…。

自分の作品にオリジナリティがあるかどうかは、本来、他者の視点で語られることでしょうから、語る言葉を見出せないのですが、僕は作品制作において、目指すべきオリジナリティというものを、そう言えば考えたこともなかった!というとんでもない事実に気がつき、自分自身、ちょっと戸惑います(笑)。作家としてはダメ人間かもしれませんね(トホホ)。また、さらに気がついたことに、このことは、もしかしたら、影響を受けた特定の“作家”が思い浮かばない(さらにダメ人間!)ことと、関係しているかもしれません。

 

続けて、作家が受ける、“影響”ということについて、ちょっと考えてみると、僕は絵であれ工芸であれ、見るのも大好きで、一年を通じて、時間を見つけては、様々な作品に会いにいきますから、ときに感動したり、ちょっと疑問におもったりなども色々あるわけです。そんな作品との出会いと、その読後感がもたらす影響下に、一時的にでも入ることを思うと、影響を受けない、というのは矛盾するわけです。しかし一方で、どんな作品からどんな影響を受けたか、というエポックメイキングなエピソードを思い出せない、という実感(戸惑い)もまたありますから、もしかしたら、“影響”を受けたのではなく、影響下で“栄養”を受けとったのだ、と解釈すると、自分のこととしては、そんな矛盾がおおよそすっきり腑に落ちます。

 

先述の通り、僕は作家としてのキャリアが少なく、杉守さんの今回のお手紙の最後に書かれていたような、作家、作品、オリジナリティ…という話題に、正しく応える自信がすごく無いのです(笑)。しかし、多少、土臭い言いようになってしまうのですが、今、現時点で制作の日々で実感していることをナレーションするならこうなります。

この世界、つまり自分が生きる日常は“土(土壌)”のようで、僕自身はそこに埋まっている、草木の“根っこ”のようだと、いつも感じます。人は思い通りにいかないことへの、不安や恐れをいつも抱き、その悲しみは互いに呼び合い、この世界を覆うことさえあります。しかし一方で、そのような、人々の思惑や葛藤とは無関係に、僕たちが感受し得る、安らぎや美しさのエッセンスは、自然や偶然のリズム(因果)を淡々と守りながら、いつも、そこかしこに、たゆたっているのも事実です。日常を生きるということは、嬉しいことも悲しいことも、そうとは知らずに触れていくことでもありますから、それはまるで根っこの本性というか、成長のダイナミズムのように、自分をとりまく、様々な要素を孕んだ日常の中に、美しさの気配を感じると、またそちらへ向かって手足を伸ばし出すわけですね。そうやって土中から栄養を得て、生まれる作品は、樹木に生える双葉か若葉のようです。このあたりのことは、上手く言葉で表現できない、もどかしさがあるのですが、あくまで僕にとって、作品が生まれる瞬間というのは、実際のところ、生(う)んでいるというよりは、生(は)えてくるような感覚が近いようです。また、この視点で、オリジナリティの正体を考えてみると、実際にこの地球上にある土中の根っこは、どれも似ているようでいて、一つたりとも同じ形のものが無いわけですから、そう考えると、僕たちが、この世界に生まれてきただけで、すでに体現していること、それがこそがオリジナリティということかもしれませんね。

 

成澤豪

 

 

追伸:グラスグリーンタグボート、愛でていただき感謝です。もとは僕の土壌から生まれた(生えてきた)作品でしたが、ルッコラの葉の美しさによって、この作品が、杉守さんの土壌に、また生まれた(生えてきた)ようで、本当に最高に嬉しいです!

 

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〜往復書簡 4回目〜

 

●成澤様

 

お返事ありがとうございます。

 

「自分が生きる日常は”土(土壌)”のようで、僕自身はそこに埋まっている草木の”根っこ”のよう」

まさに、私の考える「オリジナリティ」というものを言い表してくださった!

作家さんの人生の中で経験した美術体験、それのみでなく日々の過ごし方、生まれ育つ環境などの全てが作品に投影され、

芽が出て膨らんで、花が咲いて、実がなるということと一致しており驚いております。

 

ギャラリーというのは、そうして育った色んな形の苗をお預かりして(大木の場合もありますが。。笑)

その苗たちの魅力を伝えるにはどうしたら良いか想像して、お見せして、お水をあげて、

側で話しかける仕事だと理解しております。

作家さんのこと、自分の感じた魅力などのストーリーをお話しします。

 

作品を鑑賞する際に、「私は勉強していないから」という方が多数いらっしゃいます。

鑑賞とは、そのかたの人生の視点で、他者(作家)の物の見方、

この流れで言うと初めてみる形で色の植物を受け止め方を面白がれることが最高の楽しみで良いし、

わかる、わからないということではないのだと思います。

わからなくて当たり前。他人なのですから!

「へー、そういう生え方もあるのか!」から始まり、グッときたり、来なかったり。。。

 

作品を発表したら、沢山の人に見てもらいたい、受け入れられたいというのは自然な気持ちです。

ギャラリーでよくある質問の中に「どんな作品が売れますか?何作ったらいいですか?」というものがあります。

私が聞きたい!

 

しかしながら多くの人に受け入れられそうな事柄を作品に仕立てようとすると、不思議とこじんまりとした作品が出来上がる。

そんなことを沢山見てきました。

これは一体なんだろう?

雑誌を研究して、最高のデートコースを計画しても、その人らしくなくて楽しくないのに似ているなあなどど

俗な私は思ってしまいます。

あなたの経験の中から、彼女とこんなところに行きたいな、これを食べようよ。で全然いいのになと。

「ほーら、これが好きなんだろ?」と言われてるようで、放っておいてくれ!と思ってしまう。

嫌な女子だったかもしれません。。。それはそれで男の子は考えてくれていたのでしょうから。

 

話が逸れそうなので、さておき!

そこで自分が作品を買うときのことを考えます。

お部屋に合いそうなものをインテリアとして選んでいるかというとそうでもないのです。

そこが、作品が商品とは違うところではないでしょうか。

作品を購入することは力が要ります。決して安い買い物ではないです。

覚悟を問われます。

衝動の強さ、その作品と夜な夜な語らう喜び、朝行ってきますの時にニンマリする時間を想像します。

あ、恋です!

また、私にとってはこの作家さんを応援したいかというのも大事なことです。

それは愛です。

 

以前、作品を購入してくださった方の言葉が心に残っています。

バーをお一人で営む方でした。

平面作品でしたが、額装する際にアクリルをつけないでくれとおっしゃいました。

「私が過ごすバーにかけて毎日一緒に過ごしたい。タバコの煙も、お客様の息も全部一緒に吸い込んで、いつか死ぬときには一緒に棺桶に入れて灰になりたい」と。

そこまで思われて、購入していただける作品はなんて幸せなんだと。

忘れられないお客様です。

 

杉守加奈子

 

 

○杉守様

 

お返事ありがとうございます。

お手紙、楽しく拝読させていただきました。杉守さんが取り扱われる、作品への“愛”や“恋”のくだりは、特にギャラリストとしての、掛け値なしのパッションを垣間見るようで、そういう想いのもとに扱ってもらえる作品たちは幸せだなぁと、あらためて感じるところです。

 

また、“売れる作品”や、“何を作ったらいいか”という質問を受ける、というお話を伺うにつれ、前回の書簡後半にも書かせていただきましたが、いよいよギャラリストというお仕事が大変なお立場だ、とお察しいたします。“売れる作品”というセリフの響きには、作り手としては、なぜかわかりませんが、得体のしれない背徳感があることに、お手紙を拝読して感じました(笑)。なのに、使う言葉の順序が“作品が売れる”となっただけで、底無しの喜びが湧き出してきますから、不思議ですね。売れる作品とは、作品が売れた時に、結果として“売れる”もしくは“売れた”作品となるわけでしょうから、そこにもってきて、“どんな作品が売れるのか?”という話題は、僕などは頭がこんがらがってしまい、こんな風に言葉のレトリックな側面しか、語れることが思いつかないわけです(笑)。こういう困った時は、いつも自分の実感を振り返り、経験を参照するのですが、1回目の書簡にも書かせていただいたように、妻以外、誰かに見せるための作品として作り始めたわけではなく、ましてや売るために始めたものではありませんでしたから、やはり、根本的にどうも言葉に詰まるわけです(笑)。しかも、3回目の書簡で告白(?!)したように、作品が生えてくる…みたいなことを言っているくらいですから、“何を作ったらいいですか?”という質問者の方へ、正しく答えられるはずもないですよね(スミマセン)。ですから、そんな難問と向き合う杉守さんのお立場を、本当に尊敬するわけです。

 

僕の場合、先述の通り、だれに見せるわけでもなく始めた制作の時期が長くあったのですが、日中の仕事の足を引っ張るような(他人に迷惑をかけてしまうような)影響が無いことを条件に、夜中の時間を作品制作にあててきました。そんな僕の姿が、きっとあまりにも熱心だったからでしょうか(笑)、ある夜、妻が、僕などより遥かに優秀な視点で(笑)こう助言してくれたのです。私が見てこんなに嬉しい気持ちや、ホッとした気持ちになれるのだから、ほかの方々も同時代の心で生きている以上、同じ気持ちになれる方がいらっしゃるかもよ…と。それ以降、紆余曲折あって、世間知らずで経験不足のまま、僕は杉守さん達との出会いに、導かれたものですから、ご存知のように作品の値段設定なども、ギャラリストさんの知見をお借りしなくては、決められないような次第なわけです(重ね重ねスミマセン)。

また、作品を気に入っていただけるなら、差し上げてもいいよ、という僕の態度に対し、やはり妻が、この先も作り続けていきたいと願うなら、作りたいと思うあなたが、ご飯も食べないと作れないし、絵具も買えないと作れないのだから、どなたかにあなたの作品と気概を買っていただけることも、作家活動の大切な要素に組み込んでいかないとね、とさらなる助言をくれて(笑)、なるほど!と(遅ればせながら…笑)理解したものですから、プロの作家として必要な、売ることや売れるために、という視点や姿勢が未熟なのだと思います。

 

ですから、あくまで僕の感覚での話ですが、“作品が売れた”とお知らせいただけると、自分の中での、あの作品を作ろうと思った(つまり生えてきた)ときの、喜び、安らぎ、興奮などの創作へと向かったポジティブな感慨と、同じ感慨を抱かれた方と出会えた!という証明をいただいたようで、そしてその感慨を、夜な夜な時間をかけて、作品化するためにかけてきた気概を、認めていただけたように感じるので、“底無しの喜び”を感じるのです。ちょうど、夜空に問いかけたら星の一つが応えてくらたような、そんな奇跡的な感じです。

 

もちろん、ご購入されずとも、お褒めいただけたり、いつも楽しみにしています、などと言っていただけると、結局は同じように大喜び(笑)。1回目の書簡でも書かせていただきましたが、そんな感情が、また次に作りたくなる原動力にもなりますので、ましてや、購入(所有)していただけるということは、つまり“私の生活(人生)には、これが必要です”と、言っていただいてる感じがして、やはり喜びがひとしおです。ですから、杉守さんのお手紙に書かれていた、バーを営む方のお話は、(後世に作品を残すことが、なにより喜び…という作家さんは別として)作家として感じうる喜び(作家冥利につきる)の一つを、地で行くエピソードだなぁと思いました。

 

さて、この往復書簡、全5回ということで始まったかと、理解しております。杉守さんからいただく、お手紙に書かれた、ご自身のお立場ならではのエピソードはいつも楽しく、そして頂戴するご質問は、普段は自分のこと過ぎるからか、客観的に言葉にしたことがないようなことを、引き出していただけて、とても勉強になる機会でした。回を追うごとに文章が長くなり、恐縮していたのですが、今回は少々コンパクト(ぎみ…)に。次でいよいよ最後ですね。最終回のお手紙、期待しています!とすると、そのお返事のハードルが自動的に上がるので(笑)、お互いのために楽しく自然体でゴールしましょう。

 

成澤豪

 

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〜往復書簡 5回目(最終回)〜

 

●成澤様

 

ハードルを上げた成澤さん、こんにちは。

意地悪だなあ、もう!

 

成澤さんのお話の中には、いつも奥様がそばにおられ、大切なところで大切な言葉をまるで肥料のように。。。

夜な夜な制作される、生まれる作品を奥様は見守り、応援し、支えていらっしゃる奥様の存在は大きいですね。

日中のお仕事、デザインの第一線でのお仕事は、それだけでもヘトヘトになりそうです。

嫌な言い方ですが、作品の制作は生活のためには「やらなくていいこと」です。

しかしながら成澤さんには、その時間が必要で、ワクワクと取り組まれている。

そこに「売れる作品を作ってやろう」「これが受けるんだろう?」という邪念がないからこそ、私を含め見る者に届くのでしょう。

 

風姿花伝の有名な言葉に「秘すれば花」というものがあります。

どうやって色を作ったら、どう形にしたら、バレンの動きや力の入れ方でこんな風に変わるんだ

その一つ一つが重なり、研鑽となり、形として現れたとき、

見せていただいた私たちの心に花が咲くのだろうと、4回に渡るお手紙を通じて感じました。

 

やはり「どんな作品が売れるのか」というのはやはりお答えしかねますね。

そっと見つけさせてほしい。

いいところはどんな作品にもあると信じているし、見つけるアンテナは磨いてお待ちしております!

 

なんども言いますが、成澤さんが額装のご依頼で、ネットでルーニィを見つけてくださったのがご縁という奇跡に感謝です。

素晴らしい作家さんにルーニィを見つけてもらえるなんて!

 

成澤さんの展覧会「Toy」、「Nuance」はコロナウイルスによる営業自粛、外出規制で実際の作品を見られることなく、見ていただく機会のないまま閉じました。

それでも祈りの気持ちで壁にかけました。

ウェブサイトでの展示や、自転車で何時間もかけて見に来てくださった方もおり大変感謝しております。

昨年一度の展示で、こんなにも心を動かす作品を作ってくださった成澤さんにも感謝しております。

 

ラジオでは「音楽を止めるな」と毎日流れておりますが、アートだって止まりません。

不安な日々の中、改めて絵や写真、版画、陶芸、ガラス、様々な作家さんの作ってくださったものに、

心を和ませております。祈りのようだと思います。楽しむ気持ちを忘れないでいさせてくれるからです。

成澤さんの作品をギャラリーを営業しない状況でも、展覧会の期間中飾り続けたのはそんな気持ちからです。

 

9月、再度成澤さんの作品をルーニィで皆様に見ていただこうと心を前に向かせております。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

○杉守様

 

とっても嬉しいお手紙、ありがとうございます。

今回は展示期間中に、深刻な状況へと、世界が刻々と変化していきましたね。

ひとりの生活者として、みなさんが思うような不安や心配、今という現実と僕自身も日々向き合っております。

しかし一方で、それでも作品が芽生(めば)えてくる、そんな実感とも向き合っています。

今年に入って、実は身内を失う不幸があったのですが、そんな時でも作品が芽生てくるのです。

自分でも、どうしてそうなのか、ホントのところはよくわからないのですが、

それでも自分の胸に手を当ててみると、ひとつだけ思い当たる理由(かもしれないこと)があります。

 

それでも世界は、美しいということ。

 

この実感がある以上、作る手を止める理由が、見当たらないのかもしれません。

手塩にかけた作品たちですから、多くの方々に見てもらいたいという気持ちが、当然ないわけではないのです。

でもお手紙を拝読するにつれ、こんな時だからこそ、杉守さんの日常に、あの作品たちがあってよかった、

こんな時だからこそ、その壁を埋める必要があって、生まれて(生えて)きたのだなぁと、つくづく思いました。

 

今年の9月に再びチャンスをいただき、こんなに幸せなことはありません。

お察しの通り、ToyもNuanceも新作が生まれて続けております(笑)。

次回、作品共々、笑顔でまたお目にかかれますことを願っております。

最終回へのお返事は野暮だと承知しておりますが、

拝読するにつれ、どうしてもお伝えしたい気持ちに抗えず…。

心からの感謝を込めて。

 

成澤豪

 

※写真は2020年3月から5月まで開催の『Toy 2020 〜成澤豪の紙版画〜』の展示風景