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バックの中(後編)

 この中には、一体、何が入っているのか…。

 

 バックの中は、とてもプライベートな領域。性格であれ、美意識であれ、持ち主の、人目を気にせぬ、ありのままの何かが、反映されているものです。だとするなら、人が人生を通じて経るであろう内面の変化は、バックやその中の変化として、図らずも反映されることになるわけです。

 前編ではそんな僕自身のバックとその中の変遷(?!)を、恥ずかしいエピソードを通じてお話したのですが、では今現在、バックの中はどうなっているのか、そんな文脈で、少々ひもといてみようと思います。

 

 まずは、バックとその中身のご紹介。

 バックは、革製としては非常に軽くて、マチ幅が薄く、体に対してソフトに添う、斜めがけタイプ。スマートフォン、財布、ミニポーチ(ティッシュや目薬、花粉症の薬類をまとめて)、手のひらサイズのメモ帳(スケッチブックがわりで、詳しくは“音色”というエッセイをご参照ください)が入っています。昔はデジタルコンパクトカメラや、スケジュール帳もあったのですが、いまではスマートなフォンにとって替わられ、出先での調べものから、急な仕事上のチェックまで、なんでもかんでも担えるわけで、今や最重要アイテムといったところでしょうか。

 しかし、ここ数年(特に作品制作を始めた頃あたりからか…)のあいだに、持ち物の中での重要度の優先順位が、明らかにスマートフォンから、手のひらサイズのメモ帳へと移行したように思います。このメモ帳を、家に忘れて外出しようものなら、外ではずっと落ち着かずにソワソワ。思いついたアイディアや得た着想が、記憶の彼方へ雲散霧消…これが何よりストレスなのです。そしてさらに、そんな2番手となったスマートフォンの存在を脅かす、新たなアイテムを一年ほど前に追加したのです。

 

 それは“双眼鏡”。

 

 出先で、ああこんなとき、双眼鏡さえあればなぁ…という状況は、そうそうないものでしょうけれど、なぜか僕は、かなりの頻度で、そんな気持ちになることがあり(笑)、とうとう双眼鏡を買ってもらったのです。とは言え、首から下げて仕事先へ出向くわけにもいかず、かといって先述の通り、僕のバックは容量が小さく、入るかしら?と散々悩んだ末に、スマートフォンを手放すことさえも考えたのですが、超コンパクトタイプの優れものと出会い、なんとかスマートフォンは順位を下げただけで済んだのでした。

 

 なぜ、双眼鏡なのかというと、昔から星空や天体、宇宙への興味があり、夕暮れともなれば、街中で見上げる明るい夜空の薄い星々を、なんとか目で辿り、脳裏で星座に繋いでみたりしておりました。そうすると、空の大きさ、季節の移ろい、悠久の時の流れや、宇宙の深さを感じ、いつもの感性や想像力が、コーヒーフィルターにでも濾されるような、クリアな感覚になるのです。

 しかし都会の夜は、あまりにも明るく、薄く白む星空に向かって、いつも必死に目を凝らしていたのですが、ある時、ふっと、ひときわ明るく浮かぶ月をみて、そうか、月は昼でも会える“星”なんだ、と当たり前のようなことにやっと気がついたわけです。

 明け方に空に残る月を“残月(ざんげつ)”、昼の青空に浮かぶ白い月を“昼の月”というらしいのですが、それ以降、外出先や移動中など、昼間に浮かぶ月の姿を、ついつい探す(確認する)のが、癖のようになっていき、やがて芽生えた、あの月をもっと身近に見てみたい!という欲求が、そう、この双眼鏡の話しにつながるのです。

 

 購入後、双眼鏡で初めて見つめた、残月の美しさは、言葉を失うような体験でした。よく知っている月を大きく見た、というより、初めて見る“天体”として、地形のディテールが目に飛び込み、“星”としての現実感を、グッと僕に突きつけてきます。一方で、それは、大気中に浮かび、空に溶け出した、青白い山脈のようでもあり、どこか現実感が希薄な、危うい美しさと、文字通り手の届かないような、静謐さをたたえていたのです。

 

 コンパクトタイプの双眼鏡ですから、倍率にも限度があり、そもそも天体観測用ではありませんので、見え方の限界は承知しているのですが、それでも、月を仰ぎ見れば、双眼鏡はそんな感動を、いつでも与えてくれるので、それはもう楽しくてしかたがなく、仕事で出歩いているときでも、やめられないのです。

 味をしめた僕は、その後、月以外にも夕焼け色の雲、入道雲、遠くの木々や花々など、手あたり次第(いや、目あたり次第か…)見つめることになるのですが、普段は遠く(日常の遠景)にある、気にも留めないようなものに、猛烈な面白さや美しさがあることを、双眼鏡が見せてくれ、現実のさらなる先に思い描ける想像へと、つないでくれているようでもあります。

 そういうわけで、歩いていても、タクシーの中でも、気になるものが目に飛び込んでくると、すかさず双眼鏡を取り出すものですから、その姿はまるで、都会を徘徊する、幻の秘宝探しに取り憑かれた男…状態です(笑)。

 

 近年、機能が極まり続けるスマートフォン。お恥ずかしながら、僕にはすでにオーバースペックなのですが、遠い世界の出来事や、日常に必要な情報を、いつでも手元で見ることができることから、現代生活を生きる人々にとって、この利便性を手放すのは難しく、僕のように一時の気の迷いとはいえ、手放そうかと考えるのは、きっとナンセンスかもしれません。しかし、この小さな双眼鏡と、手のひらサイズのメモ帳は、単なる所持品であることを超えて、今や僕の活動の相棒とも呼べる存在でもあります。このバックの中身に見て取れる小さな葛藤を、持ち慣れたバックを前に、自問してみます。

 

この中には、一体、何が入っているのか…。

 

そこにあるのは、出会った事象をじっと見つめる、自分自身の目(眼差し)を持つことの大切さ。そして、自分の感性を否定せず、どっぷりと信じることで溢れ出す、想像や空想の楽しさと、それが育む、創造の可能性を得る喜びでした。この単純構造の小さな相棒は、バックの中で四六時中、持ち主の奔放を支えてくれるものですから、僕の性(しょう)に合っていた、ということなのでしょうね。

 

 さて、そんな双眼鏡ですが、本来は野鳥などを観賞するためにあるようで、正しい使い方、つまり動く対象を見ることが、案外難しいことがわかったのです。よく晴れた休日、やってやろうじゃないか!と意気込んで、野鳥のいる森林公園に乗りこんで、さてさて腕試しです。

 しかし、結果は…。姿の見えぬ、美しい鳴き声に、翻弄されつづけ惨敗。しょんぼり歩く帰り際、せめてと、何とか見つけ覗けたのは、のんびり泳ぐ鴨だけでした(笑)。

双眼鏡も、僕にはまさかのオーバースペック?!。