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秘密

 …雨。

 

 憂鬱なときもあれば、恵となるときもある雨。

 

 雨といえば、僕は雨が降ると仕事の手を止めて、窓辺でじっと雨の降りかたを見つめる時期がありました。時間が許すときには、外に出て見たり、雨景色がよく見渡せるカフェで、腰を据えて眺めてみたり。

 

 そもそも降雨とは、大気の水分が結合し自由落下するだけのシンプルな物理現象とも言えるのですが、“雨が降る”という言葉には、いくばくかの体験的な情感が込められいるように思うのは、気のせいでしょうか。そんなことを考えるようになったのは、雨にまつわる“ある体験がきっかけでした。そして、忘れられないあの体験の秘密を知りたい一心で、雨をひたすら見つめ、一ヶ月が経ち、半年となり、とうとう一年が過ぎたころ、ようやく生まれた作品があります。

 

 と、その前に、遡ること十年以上も前、少々昔の話となります。

 

 それは、今でも好きで時々滞在する、京都での出来事。日本の伝統が現代に息づくこの街の魅力は、あれだこれだと言葉に尽くせぬもので、好きが高じ、かつて住んでいたこともあるのですが、いくつになっても、また訪れたくなる街のひとつです。滞在していると、そんな京都の街が与えてくれる、安らぎと刺激の塩梅がよく、なんとも肌触りのよい時間をすごせるものですから、帰る頃には今度はいつ来ようかと、名残惜しみます。

 

 話は十年以上前の、京都滞在中のある日のことです。平日のお昼時(空いていると目される時間)を狙って、ある枯山水庭園を見に、お寺に訪れたました。

 

 数名の先客はいたものの、ほどなく誰もいなくなり、庭に面した開放的な縁側に、慣れない正座をしたなら、静かで贅沢な時間の幕開けです。

 

 急に人の気配が無くなったことに、はじめはやや落ち着かず、ソワソワとしておりましたが、古い木造家屋特有の香りを感じるほどに、徐々に座を崩しだします。

 

 そうして、穏やかで凹凸のない時の流れを、周囲の気配に見出し始めると、感性がたゆたいながらも、先んじ自らの心の在り処に、感受性も帰ろうとします。一方で、目や耳に依存した感覚が、未だ何かを探そうとしているのが、わかってくるから不思議です。

 

 楽しそうな二羽の雀。忙しそうな一匹の蟻。風の小さな悪戯に戸惑う草木…。

 

 さらに、身も心も寂然の境になるころ、周囲の閑寂と溶け合いはじめ、その場にいて、その場にいないような、孤立したような、一体となったような、奇妙な感覚にみまわれだしたのです。うまい表現が見つけられないのですが、世界がどんどん単純になっていき、自分もどんどん単純になっていくような、そういう感覚です(シンプルというものは、実は過激なものですね)。

 

 あの雨の体験をしたのは、そんな時でした。

 

 急速に鉛色の雲が、低い空を覆いだしているのが見え始め、風に微かな流れを感じたかと思うと、頬に触れる空気が、冷たく一変し、庭の奥に配された草木が、ざわつき出したのです。

 

 通り雨です。

 

 この予期せぬ通り雨は、目の前の庭を左から右へ、人の歩みほどの速度で、悠然と抜けていきました。ほんの数分間、息を飲むような光景が、何の前触れもなく現れ、そして立ち去ったのです。静寂を介し周囲との境界がいよいよ曖昧となり、感性がむき身となっていたあのタイミングの僕にとって、この雨はあまりにも劇的で、ただならぬ体験として、当時の心を揺さぶったのです。

 

 さて、この体験の秘密を追い求め、およそ一年(厳密には十年以上ということか…)雨を見つめ続け、少しだけわかったことがあります。

 

 それは、その時々に降る雨をじっと見つめているとき、そこに何かを探しているようで、脳裏では、あの枯山水庭園での体験を、感性と想像をフル回転させながら、繰り返し再生していたということです。雨の降りかた、つまり雨粒が落下する際の、中空での振る舞いの観察はもとより、それを見る自分自身の心のコンディションにいたるまで、目の前の雨と、あの時の雨の体験、この両者の間にある、違いと類似に直面しながら、その狭間を、まるで彷徨うように、探し続ける行為でもありました。そんなことを繰り返した果てに見出したのは、心揺さぶるような感動、その秘密の正体は、その時に得た出会い、その場に居合わせた幸運を、期せず活かせたことで得た経験と、その実感のうちでしか解らないというものでした。誰しもがそんなことは至極当然と思い、誰しもが身に覚えがあること、という点で、この上なく普通のことだったのです。

 

 また、大切なのは、秘密の正体を解明することで得られる何かにあるのではなく、その体験が何年経っても〝忘れ得ぬこと〟として、自分を魅了し続けている…という事実、そのこと自体なのだと思い知るわけです。この視点に気がつけたことは、幸運と財産を同時に得たようなものだなぁと(楽観的ですが 笑)思え、何年もしつこく雨を見つめ続けたことで得たご褒美のようで、たいそう嬉しい気持ちになります。なぜなら、それは僕自身の作品制作において、だれかに伝えたいものがある以上、その表現は、自分自身が得た感動や喜びの感覚(実感)に忠実であってもいいという、ある種の裏付けのように思えたからです。

 

 十年以上もかけて、一見大層なことを考えてきた結果がそんなものか、と笑われてしまいそうですが、たった雨粒ひとつ分の実感であっても、人は腑に落ちるものですから、いやはやシンプルというものは、やっぱり過激です。

 

追記:なお、画像はシルクスクリーンによる版画作品の一部分を寄ったイメージです。実物作品は職人さんによる美しい刷り上がりの雨の景色。もう少し制作点数が増え、シリーズとしての見ごたえが伴いましたら、お目に掛けたく思っております。