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大きな背中

 その瞬間、まるでスローモーションに見えた、という体験のお話。

 

 スローモーションといえば、ひと昔前なら映画やドラマのシーン(なぜかカーチェイスで車が横転する場面か、美女が水着でビーチを歩く場面が多い気がします)でしたが、最近ではスマートフォーンで、なんでもかんでもスローで動画を撮影できるようで、今更ですが、割と身近な演出方法ではあります。しかし、僕が体験したそれは、ささやかなエピソードですが、そのどちらによるものでもなく、自らが体験したことです。

 

 ある曇り空の日。東京都内の大通りを歩いて、打ち合わせ先へ向かって移動していたときのこと。少し時間が押しており、次のミーティング内容を頭の中で整理しながら、早歩きで移動する、つまり忙しさで少々気持ちにゆとりが無い、そんな状況でそれは起こりました。

 

 猛然と歩く、僕の顔のすぐ左そばに、一匹の黄色い蝶が、どこからともなく現れ、ゆっくりと追い越して行ったのです。そう、ちょうど手を繋いで誰かと歩いているくらいの距離に、なにかの気配を感じて、「ん…?」と思って振り向こうとした、一瞬の出来事でした。その瞬間、あのスローモーションがおこったのです。それは、振り向く方向とは、逆に流れる都会の景色を背景に、黄色い蝶が僕の視界を悠然と横切ったという状況でしたが、蝶にゆっくりと追い越されるという体験は初めてで、きっと時間にすればほんの数秒間、しかし意表を突かれるほど近くで、蝶と並走したわけです。

 

 本来なら蝶は、目で追うのが大変なほど、忙しそうに全身を上下にさせて羽ばたき、他の生き物とは距離を保って飛んでいるようですが、その時はなぜか、僕の左目から数十センチのところまで、さらにグッと近づき、追い越していったのです。その時、優雅な手招きのような羽ばたきが、こちらを意識した(ような)動きとして感じ、羽根の文様まではっきりと見えた(ような)のです。すべてがスローモーションの世界で。

 

 笑われるのを承知で、さらに告白すると、羽に煽られた、微かな風の動きを、ひんやり頬に感じたような気さえしたのですから、ちょっと驚きです。

 

 その後、黄色い蝶はこちらに背中を向けたまま、手が届きそうで届かないほどの距離を保ち、歩く僕の注意を、自分自身に誘導するかのように美しく舞い続けてくれたのですが、突然自分が蝶であることを思い出したかのように、グンと先へ飛翔し、いつしか上空のどこかへ消えていったのです。

 

 その情景は、巨大なビルが建ち並ぶ、都会のグレーに紛れてしまった、ひとひらのあわ雪のようで、ちょっと癖になる(また出会いたくて、ついつい探してしまう)白昼夢のような出来事でした。先ほどまで抱えていた気ぜわしさが嘘のように、歩みの速度は散歩ほどにスローダウン。一瞬、目的を見失ったような錯覚に陥り戸惑いました(打ち合わせに、少し遅れごめんなさい…)。

 

 実はこの驚きの体験には、ちょっとだけ続きがあります。

 

 蝶を見送った後の都会のグレー。この見慣れたいつものビル群が織りなす、グレーの色調が、なぜか、いつもより、格段に美しく感じたのです。

 

 蝶が、気ぜわしい日常に慣れようとする人の感性を、不意に、でも優しく呼び覚ましてくれたようで、あの小さな蝶の大きな背中には、感謝ですね。