· 

色の渚

 紙版画作品を制作する際、いくつかの“難所”があるのですが、そこをうまく通過できるかどうかで、完成の成否が決まります。

 

 最初の難所は“色づくり”。版画用絵の具を、思い描く色に近づけるべく、少しずつ混色しながら調色していくわけですが、これがほとんど一日がかりの作業。自然光の元で地道に絵の具を練り続け、用意した紙片で試し刷りを繰り返すのです。

 

 それは茫洋たる色彩の世界から、歴然たる自分の色を、なんとか見つけ出す作業なのですが、試し刷りでそれなりの色にたどり着いたとしても、翌日の馬連を使った本番刷りをしてみると、理想には程遠く、すべての工程をいちからやり直し、という悲しい結果もよくありますので、色づくりは最初の難所となるわけです。

 

 好きで始めた作品づくりですが、あまりにもこの調色(色作り)が酬われにくく、なんとか楽(らく)して色が作れないかしらと、色々と小ずるい方法をあの手この手と考えたのですが、そう思うようにはいかず、はぁ…結局いつものように絵の具を、正直に練り合わせるしかないのです。

 

 自分としては、これほどまでに理想とする色がはっきりとしているのに、手元の絵の具ときたら、簡単には思う通りになりません。よせてはかえす波のように、ほんの少しの加減で変化し、理想の色が手の中をすり抜けるのです。

 

 そんなある日、いつものごとく、ままならない絵の具と格闘しつづけ、少しだけ疲れて、昼下がりの光で明るくなった部屋の、白い壁のあたりをぼんやり見つめていたときのことです。目の前の見慣れた部屋の壁が、色作りに苦悩する僕に欠けている決定的なことを教えてくれたのです。

 

 やや黄味を帯びた、この時期の強い日中の光は、白いカーテンに漉され優しくなり、部屋の空気中に拡散し安定します。そんなボワリとした霧のような光が、白い壁や天井を煽るように柔らかく照らしていたのですが、そこに見る光は、実は、微細にそれでいてドラマチックに、刻一刻とその様相を変化させていたのです。

 

 変化の連動が、あまりにも滑らかで、さらには変化の差異が、あまりにも微細なので、数十秒ほど瞬きをせずに凝視しなくては、簡単には気がつけないほど。ぼんやり見つめていては見過ごしてしまいます。

 

 実際にこの変化は、太陽の前を横切る雲や鳥、表通りを走る車の、ボンネットが映す色などが光の変化に影響を与えていたのですが、この見えている(と思い込んでいる)中にある変化は、実際には見えていないという体験は、衝撃的でした。

 

 僕のうちに生まれた色のイメージに対して、それは疑いようもなく、それでいて不変だと思い込んでいたのですが、じつはこうしている間にも、五感があらゆる刺激にインスパイアされ続け、また様々な過去の記憶、あるいは未来への予測へ対する感情に、間断なく晒され続けることで、それがたとえ想像の世界であっても、一分一秒ごとにその影響を受け続け、微妙に変化し続けていたのです。

 

 イメージした色は、絶えず変化し続けており、必ずしも絶対ではない、そんな思わぬ事実がわかると、単に絵の具の調色が、技術的に未熟なだけではないと思えるようにもなり、あれだけ難儀するその理由が、思腑に落ちるわけです。

 

 そしてそれ以来、色づくりという難所は、色の渚に戯れる楽しい時間となったわけです。